2015年3月20日 投稿者:河内平野 投稿日:2015年 3月20日(金)14時46分11秒 通報 では、どうして、キリスト教が、大衆の心をつかめたのか。 トインビー博士は「それには、三つの理由があった」として、こう論じている。 「第一に、大衆を、単なる『労働者』としてあつかわず、ひとりひとりを『魂をもつ人間』として、あつかったからである」 一人一人が大事なんだ、尊厳なる生命なんだ、魂をもつ人間なのだ――と。 労働者とか下層階級とか――そういうふうに″束ねて″は考えない。 ″一人″を考える。一人一人を思いやる。 創価学会も、民衆一人一人の現実の苦悩に同苦してきた。 諸君のお姉さん・お兄さん、お父さん・お母さん、おじいちゃん・おばあちゃん――皆、そうである。 一軒一軒、弘教に歩いた。一人一人、いろいろな話を聞いてあげた。 ″一人″のために、それはそれは、大変な苦労を積み重ねてきた。 「自分も苦しかったんだよ」。あるいは「今も、苦しみと戦っているんですよ」と。 だからこそ、相手の苦しみがわかる。一緒に、悩みを乗り越えていこうと話ができる。 尊大ぶらない同苦の姿。これほど尊いものはない。 学会は、大衆をマスでとらえて労働者階級と見くだしたり、貧乏人の集まりと軽蔑する勢力とは、根本的に違う。 人間に、上も下もない。 生命に、金持ちも貧乏人もない。 すべて、日蓮大聖人のもとに平等である――という世界である。 草創期のキリスト教も、信仰のもとに平等であるという信念で、民衆の心の中へ飛び込んでいった。 さらに――トインビー博士は指摘する。 「第二に、大衆のなかでもとくに、自治体も帝国の政府も面倒を見ていない、 いちばん苦しんでいる『孤児』『未亡人』『病人』『老人』の世話を、キリスト教徒たちが、したからである」と。 自治体も政府も面倒を見ず、苦しんでいる人々――そういう″いちばん苦しんでいる人々″の面倒を見た。 創価学会も、そういう人たちと、いつも接し、守り、その人たちのために戦ってきた。 そのために、学会は長い間、″貧乏人と病人の集まり″と侮蔑されてきた。 こういう心ない言葉に対して、ある海外の識者は厳しく言った。 「何を言うか。それこそ、本当の宗教ではないか。金もうけの宗教は、金持ちばかりを大事にするものだ。 創価学会が、いちばん、貧しい人々の中へ飛び込んでいっている姿こそ、学会が、まことの宗教である証拠ではないか」 Tweet