投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 2月24日(火)22時10分36秒    通報
楽しく拝見しています。さあ、学びましょう。

【狂信者】

(エリー・ヴィーゼル)博士は述べられている。
「狂信的とは、宗教においてはドグマティズム(教条主義、独断的主張)であり、政治においては全体主義である。狂信者は、真実を歪め、侵す。彼は物事や人々を、あるがままに見ることができず、憎悪によって、偶像やイメージをたいへん醜く作りだし、それらに憤慨する」と。
狂信者とは、自分につごうのいいように事実をねじ曲げ、正しいものを正しいと見ることができない。意にそわないものは悪と決めつけ、憎しみによって相手の悪いイメージをふくらませ、勝手に怒りだすというのである。
じつに、“本質”をついている。
「狂信者は、本当の議論から身を隠そうとする。なぜなら、対話の概念が、彼には相いれない異質のものだからである。狂信者は、多元論や多様性を恐れる。また学問をひどく嫌う。彼はモノローグ(独白)によってのみ、いかに話すかを知っている。狂信者にとって、対話は無用なものなのである」
対話拒否――これが狂信者の証であると。
人間らしい話しあいを拒み、自分勝手な理屈や権威で相手を従わせようとする。独りよがりで、一方通行の話しかできない。人の意見は耳に入らない。また、学問を愛する「学びの心」「開かれた心」がない。豊かな多様性をもつ「世界」や「文化」に対して、自分を閉ざしてしまっている。
他を理解しようという気持ちが少しもない。「民主」でも「人間性」でもない。要するに、「無知」と「臆病」。これが狂信者の正体といってよい。
また博士は、「狂信者は、決して安心することはなく、退くこともない。多く征服すればするほど、ますます新たな征服するものを、さがす。彼が自由を感じるためには、他のだれかを、肉体的に、少なくとも精神的に投獄しなければならないのである。しかしながら、狂信者は、(他人を獄につなぐことによって)、囚人としてではなく、(囚人を見張る)番人として自分自身が牢につながれていることがわからないのである」と。

狂信者は、自分の立場を保持するために、ひたすら虚勢を張り続けなければならない。どんな正論も彼を退く気にはさせられない。たとえ、一千六百万人の声であっても。(爆笑、拍手)
虚勢ゆえに、決して心が落ち着くことはない。つねに焦っており、つねに気持ちが、目まぐるしく動いている。そして、自分の“気まま”に従わない者に対しては、脅威を感じ、力をもって抑圧し、自由を奪う。
そのためには、手段を選ばない。なんだかんだと因縁をつけ無実の罪を着せる。人を「切る」。いじめる。弾圧する。私も、そうした、いわれなき迫害の犠牲になってきた。しかし、人を抑えつけたつもりで、奪われているのはほかでもない、自分自身の自由であり、尊厳なのである。
二十一世紀を見すえつつ、ヴィーゼル博士は、こう宣言する。
「狂信的行為という、はびこりゆくガンと戦うことが、われわれの責任である」
「なぜならば、狂信的行為は、人間を否定し、下劣で、感染しやすい憎悪へと引き落としていくからである。憎悪は良いもの、価値あるもの、創造的なものを、何も生むことはない。憎悪は憎悪を生む」と。
まったく、そのとおりである。病根は根絶せねばならない。
では、どうしたら狂信的行為に打ち勝てるのか。いかに戦いゆくか――。
博士は言う。それは、「すべての人間の自由を讃え、大切に育み、守りゆくことだ」と。
「讃え」「育み」「守りゆく」――人間性が脈打つ行為である。
反対に悪は、「蔑視」「嫉妬」「破壊」を促進する。ゆえに、悪に勝利するには、この「人間性の連帯」を築く以外にない。「善のスクラム」を広げる以外にない。
「狂信」という悪を見逃してはならない。見逃してしまえば、ガン細胞のように、いよいよ増殖し、正義を蝕んでいく。戦わなければ、「人間の世界」が失われてしまう。