投稿者:ZrO2  投稿日:2015年 2月18日(水)14時47分19秒    通報
『慧妙』H18.7.16

学会教学の代表選手「H氏」とはどのような人物だったのか?
本部職員が明言した学会の邪義!
―本宗とは全くかけ離れた新興邪宗教ぶり―
―「先生は大聖人以上の賢王(けんのう)」「大御本尊は偽物!」―
―その呆れ果てた邪義を粉砕する―

平成3年に日蓮正宗から破門され、新興邪宗教としての道を走り始めた創価学会では、これまで、「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」を「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」とボヤかし、「凡夫本仏論」を吹聴(ふいちょう)して宗祖本仏義を暖昧(あいまい)にするなど、独自路線を構築してきたが、その邪義の内容はいま1つ不明確であった。
学会本部職員のHは、『聖教新聞』の中で、日蓮正宗に対する誹謗記事等を担当してきた企画部副部長である。そのHが、このほど、法華講員との対論の中で、自らの所信として創価学会の邪義を開陳(かいちん)した。
その内容たるや、御本仏日蓮大聖人に対する大冒涜(ぼうとく)、本門戒壇の大御本尊の完全否定–等々、あまりにも呆(あき)れ果てたものであった。以下、概要を紹介する。

【「池田は折伏現ずる賢王」だって!?】
―実際は聖僧に怨嫉し誡責(かいしゃく)される愚王―
<御本仏を「認めてあげる」!?>
まずHは、日蓮大聖人を御本仏と拝することについて、
「大聖人は主師親でいいよ。認めてあげる」
「御本仏は大聖人でいい。主師親三徳大聖人でいい」
等と、偉そうに嘯(うそぶ)いた。
いったい、御本仏を「認めてあげる」とは、何という言い種(ぐさ)なのか!?学会本部職員は仏以上の存在だ、とでも思っているのか、増上慢この上ない発言である。
さらにHは、御歴代上人の拝し方について、
「時の御法主が大聖人、それはいいよ、認めるよ」
「三宝一体でいいよ」
等、従来の学会の主張(またH自身の主張)を大きく変える発言をなしたが、それは、けっしてHが御歴代上人を拝信するようになったのではなく、むしろ、本宗の三宝を根本から否定する意図の上から、「どうせ三宝の全てを否定するのだから、三宝は一体でいい」との意味で言ったものである。そのHの本音が程なく露呈(ろてい)する–。

<Hの邪義”池田賢王論”>
「日蓮正宗が他の日蓮宗と違うのは、日蓮本仏だよね。他では言わないよね。この日蓮本仏は末法だから通用するでしょ。これが正法・像法だったら、釈迦本仏でもいいわけだよね。これと同じことが立宗700年(昭和27年)。昭和27年以降と以前とは違うんですよ。」
「御本仏は大聖人でいい。主師親三徳は大聖人でいい。三宝一体でいいよ。だけど、その大聖人がやらなかった化儀の折伏をやる四菩薩が、在家の賢王となって現われる。それが創価学会だっていうこと。」
「総体の地涌とかいう人(※大聖人のこと)が残した法体を、全世界に弘(ひろ)める時には、在家に四菩薩が現われるでしょ。」
「昭和27年以前なら、歴代法主を大聖人と仰いで歴代法主を大聖人と仰いでやっていけばいいよ。でも、昭和27年以降は大折伏の時代に入ったんだぞ。今広宣流布の時、この時には在家に四菩薩が現われるんだ。そのとおり現われたのが創価学会会長であり、池田会長なんだ。」
「大聖人は本仏となって、僧侶となって1ぺん現われて、弘めるべき法体を顕わして、残した法体を弘める時は在家に四菩薩が現われる、と言われているんだ。大聖人と同格か、それ以上なんだ。」
「大聖人だって、大折伏の時代となったら摂受(しょうじゅ)になるんだから。」
「大聖人より、もっとすごい存在が現われるんだ。」
「弘める人の方が上だ。法体を確立したって、弘めなかったらしょうがない。」
「昭和27年以前は大聖人が上、昭和27年以降は池田先生が上。」
「(池田会長は)大聖人以上の存在なんだ。それは賢王というんだ。」
要するにHの主張は、
「御本仏、主師親三徳は日蓮大聖人でいい。昭和27年まではそれでいい。でも、立宗700年の昭和27年以降は、大折伏の時代になった。この時は、在家に四菩薩が賢王となって現われる。それが創価学会であり、なかんずく池田会長である。この賢王は法を弘めるのだから、法体を確立されただけの御本仏より上の存在である」
というものである。

そして、これを指してHは、
「池田本仏論ではなく、池田賢王論だ」
と言っている。

<池田は「賢王」などでない!!>
だが、Hのいう”賢王”とは、御本仏日蓮大聖人よりも上の存在、というのだから、これこそ、日蓮大聖人を超える新たな仏を立てるものであり、まごうことなき池田本仏論の別名である。
そもそも、Hが立論の根拠としているのは、『観心本尊抄』の
「当(まさ)に知るべし、此(こ)の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王ど成って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し、摂受(しようじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」(御書661頁)
との御金言であるが、この御文につき、第26世日寛上人は
「今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍(なお)摂受と名づくるなり。或は復(また)兼ねて順縁広布の時を判ずるか」(文段284頁)
と釈せられ、この賢王が出現するのは、三大秘法が国中に広宣流布する暁(順縁広布の時)のことである、と示されている。
この広宣流布の暁の相については、『三大秘法抄』にも
「有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」(御書1595頁)
との仰せがある。ここにいう、有徳王のごとき強信の王が、前の「賢王」のことであるのは、申すまでもあるまい。
そして、この在家の賢王とは、有徳王が身命を賭(と)して覚徳比丘を守ったように、正法を持(たも)つ僧を命がけで守る、護法の士なのである。
間違っても、僧侶不要論を主張したり、守るべき僧を自ら憎悪し攻撃するような「賢王」が、あろうはずはない。
またHは、この「賢王」を金輪聖王(こんりんじょうおう)の出現と考えているとのことだが、いったい公の席におけるスピーチで、、、
(先生の悪口なので中略) 、、、にはありえない。

【大御本尊否定の疑難は破折済み】
―法華講員の破折で醜態(しゅうたい)晒(さら)したH―
<日禅授与本尊の疑難>
次に、Hは、本門戒壇の大御本尊を完全否定するに及んだ。その根拠としているのは、例の”日禅授与の御本尊”の件である。
Hは、3枚の写真(①北山本門寺蔵の日禅授与御本尊と思われる写真 ②明治の撮影といわれる不鮮明な戒壇大御本尊の写真 ③平成11年頃撮影と称する戒壇大御本尊のカラー写真)を示しながら、
「戒壇の大御本尊の主題と日禅授与の主題は、原寸大でピッタリ重なるんだ」
「大聖人の数百ある御本尊のどれ1つとして、原寸大で重なるということはない。なのに、戒壇の大御本尊の主題と日禅授与の主題は、原寸大でピッタリ重なる」
等々と、見てきたような妄説を繰り返した。
だが、これは、すでに日顕上人が、
「よく拝すれば、中尊の7字の寸法と、全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名・御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも、歴然たる相異が存する」(平成11年9月18日)
と破されているように、「主題は原寸大でピッツタリ重な」ったりしていないのである。
これでは、Hとはハッタリの頭文字か、といわれても仕方がない。

【『跡条々事』の読み方】
さらにHは、戒壇の大御本尊が古来から大石寺に伝わる、との根拠を否定しようとして『日興跡条々事』の
「日興が身に宛(あ)て給(たま)はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(御書1883頁)
との御文を、
「読み方が違う。弘安2年にたまわった御本尊、弘安2年にもらったんだ!」
などと曲げて解釈した。
だが、それは昔から幾度も破折されてきた、他門流からの疑難の焼き直しである。
すなわち、Hの言うような意味だとしたら、この御文は、
「日興が弘安二年に身に宛て給はる」か、もしくは
「弘安二年に日興が身に宛て給はる」
でなくてはならない。しかるに、
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」
と仰せられるかぎり、「弘安二年」は「大御本尊」に懸(か)かる語であって、賜(たま)わった時期を示すものではない。これは日本語の常識である。
Hの名誉のために言っておけば、大学院まで出ているHが、この程度の国文法が解(わか)らないのは、何も頭が悪いわけではない。
日蓮正宗を誹謗するためなら、文法も、道理も、好きなように曲げてかまわない、との歪(ゆが)んだ心がなせる業(わざ)―、要するにHは、頭ではなく根性が悪いのである。

【口から泡吹いて沈没!】
かくて、根源の大御本尊まで否定したHは、「では何を広宣流布するのか?」との問いに、
「一閻浮提総与の大御本尊。日寛上人の御本尊も、全て、一閻浮提総与の大御本尊の写しでしょ」
「(その一閻浮提総与の大御本尊は)宇宙にも存在しているし、我々の心にも存在している」
「久遠の法といってもいい」
と力説するに至った。
そこで法華講員から「宇宙に遍満(へんまん)していて我々の心にも存在しているなら、もとより広める必要もないではないか!」
と弾呵(だんか)されて絶句、支離滅裂になったHは、
「カトリックでも広めたら立派」
「カトリックでも仏法の知恵を挟(はさ)んでいるから良い」
「それがわからなければ世界宗教たりえない」
等の邪義を、口から蟹(かに)のように泡を吹きながら喚(わめ)いて、沈没してしまった。
ともあれ、この日のHの発言内容は重大である。本部職員たるHが、学会員ギャラリーの前で、これを言い切ったのだから、これは今後、学会の公論となっていく可能性が高い。
もし、Hが、この発言の責任を問われないとすれば、この内容を学会本部も是認した、と言ってよいだろう。
学会のここまでの狂いぶりを、いまだ理解できていない一般学会員に、我々はいよいよ慈悲の大折伏を加えていかねばならない。