投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 2月 5日(木)18時43分41秒    通報 編集済
①  (1993. 9. 7)

この会場には「第六回SGI世界青年研修会」のため、世界三十四カ国・地域から三百二人の偉大な青年リーダーが集っておられる。
遠いところ、また円高などで経済的にも大変ななか、「本当にご苦労さま」と、私は最大にたたえたい。

戸田先生はよく、「牧口先生は青年が大好きであった。私も青年が大好きだ」と語っておられた。
私も、まったく同じ気持ちである。

先生が、このみずみずしい、晴れやかな「世界広宣流布の青年の集い」をご覧になったら、どれほど喜ばれることか。私は重ねて、皆さまの尊い求道心を賛嘆したい。
また、日本の青年部も、新たな出発を開始した。海外の青年部に負けない「信心」と「活躍」を、私は待っている。

ちょうど四十年前の一九五三年(昭和二十八年)四月、戸田先生は、第一回男子青年部総会で語られた。

「青年の意気というものは、いつでも大事なものです。人間の生命には、進歩と保守の二つの戦いがある。私のような年(当時五十三歳)、諸君の両親のような年齢になると、なんとなく保守的になるが、若いうちは、なにかしら新しいものを求めていく、進取的なものがある。この進取的なものが、人の幸、不幸を決めていくのである。この進取的なものは、若い生命にしかない」と。

その通りである。「未来」は青年にしかない。青年によって全部、決まる。

また「キリスト教があれほど広まったのは、青年の力によったのです。かれ(キリスト)が、心の問題にたちかえって教えを説き、それに共鳴した青年たちによって、あれほど盛んになったのである。釈迦が永遠の生命を感得し、バラモンの教義を破って、仏法を建立したとき、その闘争に参加したのも、みな青年である。青年の意気と力とは、じつに世界の歴史を変えていくのです」と。

歴史を開き、変えていくのは常に青年である。青年でなければできない。

私も戦った。戸田先生の心を心として、一人立ち、一人戦い、学会を変え、社会を変え、仏法の歴史を変えてきた。全世界に正法の和合僧を築いた。

そして諸君の先輩も戦った。戸田先生の訓練、そして私たち青年の激闘は、率直に言って、今の青年部の多くとは比較にならない。私には、それだけの自負がある。
若くして、偉大なる生命哲学をたもった皆さまは、人類の「希望」であり「宝」である。

戸田先生も、学会の青年部は皆、一人残らず「世界のリーダー」であると言われていた。その「自覚」を植えつけてくださった。

私も、学会の未来は、すべて青年部に託す以外にない。ゆえに青年部を大事にするし、その活躍を見守りたい。とくに海外の青年部は、けなげであり、尊き方々である。

「誇り」をもつことである。
「確信」をもつことである。そして、まっすぐに「世界の道」「平和の道」を、「勝利の道」「栄光の道」を、悠々と進んでいただきたい。

『「人格」は雄弁″あの姿こそ正義の証明″と』

舎利弗と目連といえば、釈尊の十大弟子の中でも、ひときわ輝く最高峰の弟子として並び称される。
舎利弗は「智慧第一」。優秀の中の優秀。目連は「神通第一」。自在に活躍する行動派だったのかもしれない。二人とも、釈尊が最も信頼した弟子の中の弟子であった。

提婆達多が反逆し、教団を分裂させようとした。正法の教団にも、必ずそういう悪人が出る。
そのとき、提婆の側につこうとした弟子五百人に正義を訴え、皆を連れ戻し、教団を厳然と守ったのも、この二人の弟子であった。
二人でもいい。本物の弟子がいればよいのである。

牧口先生の本当の弟子は、戸田先生お一人であられた。そして戸田先生は、私を心に置いて言われていた。「本当の弟子が一人いれば、妙法は世界に広がる」と。

今、青年部の中から、私と同じ決心で立つ人が出てくることを私は期待する。

さて、二人が釈尊の門下に加わったことは、教団にとっても大きな出来事であった。
釈尊の弟子になる前から、二人は、すでに第一級の人物として有名であった。輝かしい将来が楽しみにされていた。

「あの二人が弟子になるくらいだから、釈尊は、よほど立派な方なのだろう」──と、評判になるほどだったという。

では、二人が釈尊の弟子になったきっかけは、何であったか。
幼いころから、二人は親友であった。ともに、人生の師、真実の教えを真剣に求めていた。
動物に師弟はない。師弟があるのは人間だけである。ここに人間としての証があり、向上の道がある。その究極が、仏法の師弟である。

二人は″信頼できる師に出会ったならば、ともに同じ道を進もう″と、固く約束していた。

ある時、舎利弗は、街で一人の修行者に出会う。
その人は、一軒一軒、家々を訪ね歩いているところであった。托鉢という当時の仏道修行である。その姿は、礼儀正しく、堂々としていて、晴れやかで、すがすがしかった。

諸法(現実のもろもろの姿)は即、実相(真実)である。姿を見れば、心がわかる。にじみ出てくるものがある。話し方、目つき、礼儀や行動に内面が表れている。
すがすがしい人間性、揺るぎない確信、毅然たる意志、堂々たる決意──人格の人には、色あせない「輝き」がある。

一方、いばってばかりで、さわやかでない人がいる。よく見せようと表面を飾る人がいる。どちらも実力がない証拠である。
舎利弗は、修行者の姿に″何か″を直感した。話しかけようとしたが、修行の邪魔をしてはいけないと思い、ずっと様子を見守っていた。

彼の態度を見れば見るほど、舎利弗は、その人格の光に心ひかれた。″この人は尊敬できる人だ″″この人の師匠は一体だれなのか″──。

ある意味で、弟子を見れば師匠がわかる。子供を見れば、親がわかる。

舎利弗は、その人が修行を終えるのを見届けると、駆け寄って尋ねた。

「友よ、どうか教えてください。あなたの師匠は誰ですか。あなたは誰の教えを受けているのですか」

その人は答えた。穏やかで、実に気持ちのいい態度であった。
「私の師匠は釈尊という人です」
舎利弗は、この仏弟子から釈尊の教えを聞いて歓喜する。
「やっと求めていた師がみつかった!」

舎利弗は急いで目連に知らせた。
二人は、二百五十人もの同志を引き連れて、釈尊のもとへ馳せ参じたのである。さあ、皆で行こう!

師のもとへ──麗しい光景である。
一人の弟子の振る舞いが、師匠の真実を宣揚し、同志の連帯を大きく広げていく──これが人生の姿であり、また、広宣流布への法理であるかもしれない。

仏法といっても、特別なものではない。「人間の道」そのものである。真に「人間らしい人間」をつくるのが信心なのである。
権力欲をはじめ醜い魔性の欲望に支配されれば、「人間」というよりも妖怪のようなものである。

餓鬼界や畜生界の人もいる。頭でっかちで人間性ゼロの人もいる。心の乾ききった、機械のような人もいる。皆、「人間らしい人間」とはいえない。

人々のために、社会のために──菩薩の心で行動するのが本当の人間である。指導者がそうなれば、戦争など起こすわけがない。
信仰の強さ、深さは「人格」に表れる。皆さまもまた、自身の振る舞いを通して、「あの人がいるのだから、SGIは素晴らしい団体にちがいない」と言われる、お一人お一人に成長していただきたい。