投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月14日(火)22時28分39秒     通報

教義変更を簡単に「はい、そうですか」と受け入れる方がどうかしていると思います。仮にも日々の勤行で南無し奉ってきた対象が、いきなり受持の対象としないとなったのだから、少しは考えてもらいたいと思うのです。御観念を適当にやってきた人ならば受け入れることができるかもしれないが、真剣に観念してきた人は「え?」ってなるのが自然であると思います。信心があればあるほど、疑問に思うだろうし、受け入れがたいのではないでしょうか。

「御本尊だけは絶対である」と信仰者ならば誰もが思う事でしょう。それが、受持の対象にならないと判断されてしまうと、何がなんだかわからなくなる。信じてきたものが崩れ去ってしまう。今までなんだったのかと空虚感に襲われる人もいるでしょう。謗法の地にあるから駄目だと言われても、そんな簡単な話で片づけていい問題なのかと考えるのが、信心ではないでしょうか。教義変更は、会員の信心を壊してしまう要素があることを考慮しているのか。本当に広宣流布の一念の下に推進されたものなのか。はっきりさせなければなりません。

創価の師弟は、弟子が師を護るところに真髄があると思います。師に迷惑をかけていいんだという発想そのものが、すでにズレている。師を盾にする弟子が本門の池田門下といえるでしょうか。それはまさに54年の一念であり、師を犠牲にする姿であります。仏法者が観るべきは奥底の一念であり、そこが狂っていると、とんでもないことになる。

師の指導をまるでなかったかのように削除して事を済ませるのか。それとも真摯に指導と向き合うのか。過去との整合性はどうでもいいということは、指導も結局はどうでもいいものになる。それは結果的に、師を軽んじる師敵対へと転落していく恐れがあります。師恩を大事にするのが仏法であり、また、それが人としての生き方でもあります。最高幹部は、信心の模範となるべき存在であり、そうでなければ会員を正しい方向へ導くことはできない。

幹部が慢心すると、会員を侮るようになる。それを天狗といいます。いい気になってうぬぼれているからこそ、雑な打ち出しも平気でやるようになる。そして天狗というのは、勝手になっているものであり、自分では気づかない。力がつけばつくほど、立場が上であればあるほど、天狗になりやすく、一番恐ろしい魔なのです。教学部の懸念の声を無視した執行部の天狗っぷり。それでは道を誤るのは当然であります。「もしかしたら天狗になっているかもしれない」と、常に自戒の心を持たないといけないというのが教訓であり、学ぶべきことでしょう。そういう意味で執行部には感謝したい。お礼に、天狗の鼻をへし折ってあげたいと思っております。