投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月11日(土)11時36分15秒     通報

創価学会の初代、二代、三代の会長が日蓮仏法を護りました。反対に宗門は、神札を容認し、大聖人の精神に違背する謗法を犯しました。創価三代の会長がいなければ、日蓮仏法はとっくに滅びていたわけです。牧口先生が殉教される中、その時一体宗門は何をしていたというのか。そして、牧口先生の精神を受け継いだ戸田先生が、戦後の焼け野原の中一人立たれ、広宣流布を推進され、75万世帯の折伏を成就された。さらに戸田先生の意志を継いだ池田先生が、世界192カ国へ日蓮仏法を流布したという事実。この三代に渡る師弟の精神の中に、広宣流布があり、日蓮大聖人直結であることは明確であります。

現代では、創価の師弟に連なることが日蓮大聖人の精神を体現することであり、功徳も絶大なのです。そして創価学会の独自性というのは、まさにこの創価の師弟のなかにあり、それを「師弟不二」としているわけです。創価三代の精神を正しく受け継ぎ、広宣流布を推進していくことが、最も大事であります。このことがわからないと、池田本仏論のような珍説がまかり通るようになってしまう。大聖人と三代会長が同等などという珍説は創価学会の中には一切存在しませんし、そんな指導もありません。

創価三代の師弟不二という独自性こそが創価学会の特徴であり、これ以上の独自性は必要ないでしょう。御本尊に関することで、独自性を見出だすことは必要ないというか無理です。今回の教義変更は、大御本尊という完成された教義(独自性)からの離脱であり、すべての本尊を本門の本尊とすることは、宗門以外の他宗教団体と同じレベルに成り下がっただけのことです。一新興宗教の主張であり、そこに独自性はありません。御本尊に関しては宗門と切ってもきれない関係にあり、それを無理やり切ろうとするといびつな教義となってしまう。虹と創価家族様が仰るように、小樽問答との整合性もとれなくなり、「謗法の地にあるから受持の対象としない」という、陳腐で浅い本尊観に堕してしまうわけです。

無理して教義変更しなくても、誰も困らないし、広宣流布の妨げになることもありません。あくまでも悪いのは大御本尊を盾に威張り散らしてやりたい放題の坊主であり、こちらから大御本尊を捨てる必要はありません。御本尊に関しては、宗門に分があるのが気に入らなかったのかもしれませんが、そんなことは気にするようなことではないでしょう。たとえ、大誓堂の本尊を大御本尊としたところで、それは日寛教学の本尊観を超えたものにはならないだろうし、似たような本尊観が確立されるだけでしょう。新興宗教として出発しようとしているのかはわかりませんが、伝統や歴史を軽んじることはリスクを伴います。「整合性なんて関係ない」というのは暴論であり、間違いを犯す可能性大の一念でありましょう。

そういうことを懸念したのが教学部であり、至極まっとうな感覚だと思います。その声に耳を傾けずに、拙速に事を進めた執行部は、どう考えても異常です。「なんで今なのか」という懸念の声も多いと思いますし、それについて、誠意ある回答を本部は出せるか否か。本尊の問題を、熟慮もなく進めること自体が悪であり、信心のない証拠となる。創価学会の中枢がそんな残念なレベルでないことを期待したいものです。