2015年4月8日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 4月 8日(水)21時41分45秒 通報 池田先生が表舞台に出てこなくなったことは、どのような意味合いがあるか。それは、広宣流布の指揮を執るのが、先生から、池田門下へと移行したことを意味するのではないでしょうか。弟子が全責任を担って、広宣流布を推進していく時代に入ったということであり、そのようにとらえることが、弟子として正しい姿勢だと思う。であるならば、いかに早く先生に対する依存心(頼る命)から脱却し、自分自身の思考と祈りで、行動できるようになるかが鍵となる。 全責任を担うということは、当然、教義変更に関しても例外ではありません。絶対に先生に迷惑がかかるようなことがあってはならないし、そのような可能性があるのならば実行に移してはならないと私は考える。もしも、今回の教義変更が、仮に先生の厳命であったとしても、私が会長ならば、実行しなかったでしょう。池田門下の時代なのだから、池田門下がすべての矢面に立たなければなりません。今、推進してしまうと、結局は先生が非難中傷されるわけです。ですから、先生がやれと言われても、「今はやりません」と答える。 先生の威光を借りなければならないこと自体が間違っていると思いますし、それは弟子としてズルいと思う。私はそんなズルい人間にはなりたくない。教義を変更するのであれば、先生に迷惑がかからない時期に、堂々と推進する。師を蔑ろにするような真似は、絶対にしないからこそ本門の池田門下なのではないか。いかなる大義名分があっても、先生が批判されるような事態になってしまったら何の意味があるだろうか。師を軽んじる気持ちが微塵もあってはならないし、そういった慢心をいかに廃していくかが、戦いでもあります。 師が弟子を想う気持ちは計り知れないし、想像もつかない。池田先生は、学園生や創大生のことを「自分の命よりも大切な存在である」と言われますし、また、「創立者の気持ちは創立者にしかわからない」とも。いざとなれば先生は、自身を犠牲にしてでも弟子を守るでしょうし、労苦も惜しまないでしょう。しかし、弟子がそれでよしとするのであれば、不肖の弟子にも程がある。それはただの甘えであり、結果的に師を蔑ろにすることにつながる。そんな弟子であるならば、54年の二の舞になることは明らかであり、よくよく考えなければならない事項である。 創価学会は、まだまだ先生依存の組織であるのが実態です。その証拠に、教義変更でも、多くの会員は「先生がいるのだから間違えるわけがない」と考えているでしょうし、執行部もうまくその心理を利用していることと推察します。また、組織で理不尽なことがあっても、先生がいるから頑張っている人もたくさんいるでしょう。ある意味そこでもっているのが、今の創価学会といったところなのではなかろうか。このままでは、先生がいなくなったらダメになるような組織であり、一気に衰退する局面がやってきてしまうのではないでしょうか。 今後、最高幹部を叱りとばすのは一体誰なのか。それは、一人ひとりの会員であり、池田先生ではありません。今までは、池田先生がいたからこそ、自浄作用として幹部の慢心は抑止されてきたが、これからはそれがなくなる時代なのである。このことを自覚しないと、悪い幹部のやりたい放題な学会となり、とんでもない方向に進んでしまう。内部の悪を放置したら、広宣流布が内側から崩壊し、頓挫する。実に恐ろしい事であり、それらを容認した人たちも与同となる。だからこそ、「内部の悪との闘争」を第一義として考えることが、もっとも重要なのではないでしょうか。 ともあれ、先生に依存している内は戦いにならない。依存は思考力を奪ってしまうからである。自立した信仰者でなければ価値を創造することはできない。創価の師弟とは、自由自在であり、縛られたものではない。少なくとも私は、融通無碍である。 Tweet