投稿者:ジョーカー  投稿日:2015年 3月18日(水)23時21分2秒    通報
パラダイムシフト:その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化すること。

信心とパラダイムシフトは切ってもきれない関係にある。一念の変革、宿命転換、変毒為薬等は、パラダイムシフトに位置付けることができましょう。日蓮仏法とは自分を変革する宗教であり、嘆くべき宿命を使命へと変えゆく。人それぞれ、命の傾向性があり、宿命とは、「どうしてもそうならざるを得ない何か」である。自身の傾向性こそが「当然」のものであり、そこに変化を加えること、これパラダイムシフトである。正確には、一つの視点からしかみられない自分を、違う視点からみられる自分に変わること、これを自身の殻を破るともいいます。

さて、今回創価学会は、御本尊のパラダイムシフトを断行しました。大御本尊(本門の本尊)という当然の御本尊の原理に対し、すべてが本門の本尊という本尊観へと見方を変えました。当然、本尊観については人それぞれであり、一枚岩にはいきません。信心や教学があればあるほど、簡単に、「はい、そうですか」とはいかない問題です。多くの学会員は、すっきり祈ることができるのなら、御本尊は何でもいいと考えているのかもしれません。というか、そこまで御本尊に関心がないのではないかとすら思います。というのも、何年も拠点に使わせて頂いた方の家に、久しぶりに訪問させていただいた時に、当時は日達書写本尊だったのが、日寛書写本尊に交換されていたので、そのことを家主に言いました。家主は大変驚かれながら、「そこに気づくのがすごい」と。

青年部世代だと尚更だけど、御本尊に関する知識がない人が大半であり、それ故、関心をもつこともない。御本尊に何が認められているのかもわからないだろうし、誰が書写したのかはさらにどうでもいいことなのでしょう。教義変更も、何が問題なのかすらわからないレベルであり、テストでいうところの、問題の意味すらわからないといったところではないでしょうか。

御本尊のパラダイムシフトをするのであれば、教義の根幹に関わることなので、とても慎重に進めなければなりません。間違っても、教学部の懸念の声を無視したり、排除したりしてはいけません。結果ありきの出来レースなどとんでもありません。御本尊に関し、厳格に考えている会員さんも少なからずいます。むしろ、それが正常であり、真の信仰者ともいえます。こんな当たり前のことを主張しなければならないことの情けなさ、残念ながらそれが今の執行部のレベルを表しています。一人を大切にとは、どれだけマイノリティーの人を大切にすることができるか。そこをみればわかるのです。さて、執行部の姿勢はいかがなものだろうか。私は教義変更は失敗だったとみていますが、その要因は、「会員を甘く見すぎた」、この一点に尽きると考えます。

ジュリアス・シーザー
「始めた時は、それがどれほど善意から発したことであったとしても、時が経てば、そうではなくなる」

人も組織も時が経てば、良くも悪くも変わっていきます。今の学会は常に権力の魔性と隣り合わせです。宗門と同じで、いつ狂ってもおかしくはないのです。杜撰な教義変更は、学会中枢に権力の魔性に魅入られている人間がいることを示唆しています。歪みがあるからこそ、現実世界に教学部レポートや、遠藤文書、そして宿坊の掲示板が具現化したわけです。これをただの怪文書や、ネットで騒いでいるだけの人間たちとみるのは自由である。