2015年3月21日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月21日(土)05時14分43秒 通報 m様が紹介してくださった先生の秘伝の祈りの指導は、私も大事にしています。朝の勤行の冒頭で、「梵天、帝釈、日天、月天よ、我が身に入りたまえ!」と毎日祈念し、一日はそこからスタートします。この祈りを、かれこれ10年ほど続けていると思います。では、実際このように祈ってきて、どのような変化や実感があったのかを発表していきたいと思います。 梵天、帝釈、日天、月天とは、所謂、諸天善神の代表格であり、言い換えれば、すべての諸天とも言えます。我が身に入りたまえとは、自分自身が、誰かの諸天善神となる生き方をすることであると解釈しています。このように祈るとどうなるのか。不思議なことに、困っている人が自分の周りにどんどん集まってきます。私の場合は、主に、コアで洒落にならない悩みが集まります。そこで徹底的に鍛え上げられるのは、「同苦の精神」であり、同苦とは何かについて、考えさせられます。その、同苦の実践により身についたものがあります。一連の戦いを知っているある人に言われました。「人徳が身についたね」と。 同苦できるようになることが、人間革命の一つの証左であると思います。当然ながら、鈍感や無神経では、同苦の世界では一切通用しない。誰かの諸天善神になるということは、同苦の精神がバキバキに鍛え上げられることを意味し、そうでなければ実質的に諸天(味方)になることはできない。諸天といっても、現実的には人であります。もちろん日天・月天は太陽と月をあらわしており、自然現象も味方に変えることができますが、それでも大きな影響を与えるのは人です。自他共の幸福を願うのであれば、自分自身が諸天になることを意識することが大事であり、その祈りを根底にしてこそ、本当の意味で人の役に立てると思いますし、それが私の実感でもあります。 ユングは集合的無意識を説きましたが、これは、すべての生命は根底でつながっているということであり、祈りが通じるのもそのためです。つながっているのだから、厳密にいうと、自分と関係のないというものはなく、また、そのようにとらえるのが仏法者の生き方といえましょう。全宇宙即我であり、宇宙的視座から物事を視る眼を養っていくことも大事になりましょう。 自分が誰かの諸天善神になれば、自分自身も護られるようになります。我々は地涌の菩薩であり、地涌の仏ではありません。諸天善神になるという菩薩的生き方こそが、人の道の最高峰であり、無上道ではないか。故に先生は、「秘伝」と言われたのだと推察します。 「梵天、帝釈、日天、月天よ、我が身に入りたまえ」の祈りは、あらゆる悩みが押し寄せてき、それらを背負っていくことになります。その分、同苦の精神は養われ、自身を磨くことができます。ちなみに、私の毎回の投稿記事の根底にあるのも、この祈りであるということも付け加えておきましょう。 ともあれ、同苦ができない、人の心がわからない無慈悲な人間になってしまえば、なんのために信心しているかがわからなくなる。形だけの仏道修行では、同苦の精神を養うことはできない。仏法者として常に問うべきことは、「自分自身が誰かの諸天善神になれているかどうか」であり、また、「諸天善神になる」と決めてこそ、自身の本来持っている力を最大限に発揮することができるのではないでしょうか。本日よりは共々に、本物の信仰者を目指してまいろうではありませんか。 Tweet