2014年12月1日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年12月 1日(月)09時19分1秒 通報 日蓮大聖人は、四条金吾に与えられたお手紙(「崇峻天皇御書」)で次のように仰せられている。 「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書一一七四頁) ――不軽菩薩が人を敬ったのは、いったいどういうことか、よく考えなさい。 教主釈尊がこの世に出現された根本目的(本懐)は、人間としての振る舞いを教えるところにあったのである――と。 あまりにも有名な御文である。 また同抄では、八万法蔵といわれる膨大な釈尊の教々も、その肝心は法華経であり、 その法華経の修行・実践の肝心は不軽品に説かれているとも述べられている。 不軽菩薩は自分を迫害する者に対しても、仏性があり必ず仏になるべし、と礼拝の行を続けた。 要は、仏教とは「人間への尊敬」を根源的に教えた宗教である、との御指南とも拝せよう。 その核心が法華経である、と。 また反対に、人間を軽侮し(軽んじ、あなどる)、仏道修行を妨げようとするのは「魔」の働きであり、法華経の敵となる。 ゆえに、仏と魔との戦い、広宣流布の戦いは、一次元からいえば、「人間を尊敬する者」と、「人間を軽賤する者」との勝負である。 また「人間を仏性をもった存在として礼拝する者」と、「人間を手段化し、『ロボット』のようにしようとする者」との闘争なのである。 【第一回SGI世界青年部幹部会 平成三年七月十日(全集七十七巻)】 Tweet