投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月23日(日)09時49分14秒    通報
ダンテの苦難の生涯は、あまりにも有名である。
生まれたのは一二六五年。日本でいえば文永二年。

大聖人が伊豆流罪から戻られ、故郷の安房(現在の千葉県南部)に帰られていたころである。
ダンテは大聖人より四十三歳年下、日興上人より十九歳年下、日目上人より五歳年下、日目上人とほぼ同時代の人である。

故郷はフィレンツェ。
ちょうど十年前の一九八一(昭和五十六年)六月、私はこの詩人の「生誕の家」を訪ねた。
ダンテが九歳の時、永遠の恋人ベアトリーチェに出会った教会も、隣り合わせに残されていた。

ところで、若き日の彼の肖像は、眉目秀麗で、おとなしい、やさしい感じの青年である。
ところが、今残る多くの肖像は――「生家」の胸像も――憂い顔で、深刻なしわを刻んでいる。
その間、何があったのか。

初恋の人ベアトリーチェは他家に嫁いだ。
のみならず二十四歳の若さで死んだ(ダンテ二十五歳の時)。
ダンテの打撃は大きく、救いを「古典哲学」に求めた。

一二九五年、三十歳の時、彼は政治活動をする資格を得た。
(二十二歳のころ、イタリアのボローニャ大学へ留学。その時、学んだ医学を生かして、医師・薬剤師組合に入り、公職への道を開いた)

当時の都市は一つの国家である。
フィレンツェという都市国家に「平和」と「繁栄」をもたらさんと、ダンテは誠実に働いた。
しかし、政情は、あくまで不安定である。

詳論は時間の関係上、省くが、貴族階級と商人階級、王権(神聖ローマ帝国)と教会権力の対立が渦を巻いていた。
「正義の人」ダンテはいたが、「驕慢と嫉妬と貪欲の三つの炎が(=フィレンツェの)人の心を燃やしていた」のである。

一三〇〇年、ダンテは国家の最高責任者である統領の一人に選ばれた。
ダンテが戦ったのは、野心家のローマ法王ボニファチオ八世である。

豊かに栄えるフィレンツェを自己の支配下に置こうと圧力をかけ、脅したり、画策したりする法王。
剛勇の人ダンテは、矢面に立って法王の圧力をはね返した。

しかし、法王と手を結ぶフィレンツェ内部の力が増し、ダンテはやむをえず、
和解のため、ローマ法王のもとに向かわざるをえなくなった。

ところが、ダンテらが旅立ったすぐあとのこと。
法王の息のかかったフランス王の弟が、軍を率いてフィレンツェに入城してしまった。
ダンテの陣営は総くずれである。
ダンテも欠席裁判で有罪となってしまった。
ことごとく身におぼえのない罪であった。

【イギリス青年部総会 平成三年六月二十九日(全集七十七巻)】