2014年11月15日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月15日(土)16時04分44秒 通報 フィリピンの歴史は、他国による植民地支配との闘争の歴史でもある。 スペイン、アメリカ。日本――。 治める国は変わっても、支配階級が現地の人々を抑圧し、みずからの私腹を肥やす構造は、基本的に変わらなかった。 フィリピンは米西戦争(アメリカ・スペイン戦争、一八九八年)の結果、米国領となった。 アキノ氏の祖父は、アメリカのアーサー・マッカーサー初代フィリピン総督(ダグラス・マッカーサー氏の父)と対決し、逮捕、投獄されている。 また、第二次大戦中、下院議長を務めていた父親も、ダグラス・マッカーサー氏によって、 日本軍に協力したかどで逮捕され、日本の巣鴨拘置所に投獄されている。 いずれも外国人による逮捕、投獄であった。 アキノ氏も、同様に過酷な運命に翻弄される。 しかも今度は同国人によって、諸外国による支配の後に、同胞による独裁政治が訪れたのだ。 当時のフィリピンの憲法は、大統領の三選を禁止していた。 ゆえに、アキノ氏の次期大統領就任は衆目の一致した予想であった。 しかし、みずからの政権維持をねらう時の大統領マルコスは、一九七二年、 《共産分子による国家転覆計画から国を守る》という口実のもとに戒厳令を施行。 政府転覆、殺人、武器不法所持の容疑で、最大の政敵アキノ氏を逮捕、投獄する。 さらにマルコスは、三選を禁じた憲法を改正し、みずからの独裁権力を強めていく。 そして、一九七七年、アキノ氏は軍事法廷において、銃殺刑を宣告される。 みずからの地位を利用し、民衆をみずからの富を増やすための道具にする。 その悪行の障害になる人間をなきものにするためには、法をも歪める ――いつの時代、どこの国でも権力者の手口は似ている。 しかし、アキノ氏は、こうした独裁者の陰謀に一歩も退くことはなかった。 「不正義を認めるくらいなら私は死を選ぶ」と。 むしろ、毅然たる態度で、信念を貫いた。 七年七ヶ月――。 想像を絶する牢獄での戦いが始まる。 《行動の人》であったアキノ氏にとって、人々との対話、交流を遮断された独房での生活は筆舌に尽くしがたい苦しさであった。 彼は獄につながれたほとんどの時間を読書にあてたという。 その量、約三千冊。 それは、獄舎の中で、孤独と絶望から発狂することを防ぐための手段でもあった。 【第四十一回本部幹部会 平成三年四月二十五日(全集七十七巻)】 Tweet