2014年11月14日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月14日(金)09時04分6秒 通報 それでは、「偽物」と「本物」は、どう違うのか。 彼(妻の兄)は言う。 《(えせ宗教家は)気が短くて、 人を恨む心が強く、 真心がなくて、 策略にたけ、 人を破壊させるためには、 厚顔にも天の利害でもって (天国とか、さまざまな教義を使って来世のことでおどし) 自分たちの恐るべき憎しみをおおい隠す》 《腹を立てると、人の尊敬する武器(儀式やキリストなど)を逆用して、信者を「神聖な刃」で殺そうとする》 「神聖な刃」すなわち宗教に名を借りた暴力、権力を振り回す――と。 そして見かけを荘厳に飾り、人々の「信用と威厳を買い取ろうとする」というのである。 一方、「本物」はといえば、 「かれらの信仰は人間的で、親しみがもてる。 かれらはわれわれの行動を、いちいちとがめ立てたりはしない」 「みずからのおこないによって、われわれに範を垂れる」 「陰謀をたくらんだりするようなことは絶対にない」と。 《本物はすぐにわかりますよ。金メッキに目がくらんではいけません》と、彼は主人に説き聞かせるのである。 仏法においても、 「人間的」で「親しみ」に満ちた、あたたかな「ふれあい」「励ましあい」の世界。 そこに、「正しき信仰」の表れがある。 真実の信仰は、悪しき「権威」や「虚飾」とは無縁である。 Tweet