【小説「九十三年」革命は死なり】池田先生指導④
投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月12日(水)13時42分51秒

ところでユゴーは、この『九十三年』をはじめ、《嵐の時代》の《嵐の人生》を繰り返し描いている。

《嵐が大掃除を可能にする》――。
これが、ユゴーの歴史観の重要な視点である。

つまり、嵐によって、少々、木が倒れることがあるかもしれない。
根の弱い木などが倒れるのは、ある意味でやむをえないかもしれない。

しかし、その一方で、嵐は多くの森を、さわやかに洗い浄めてくれる。
乗り越える力があるかぎり、嵐による利益は大きい。
人間と社会も、また同じである。
むしろ、嵐は必要でさえある――。

これがユゴーの考えであった。
厳しいといえば厳しい。

しかし、自然と生命の法則に合致した、正しい観点と思う。
学会の歴史も、嵐また嵐の連続であった。
だからこそ、その嵐のたびに、いやまして清らかな「和楽の森」「人材の森」「人間性の森」を築くことができた。
強く、うるわしい「創価家族」の輪を、大きく広げることができたのである。

またユゴーは、『九十三年』の青年主人公に、こう言いきらせている。
「もしわたしが羅針盤をもっていたら、この嵐だってなにほどのこともありませんし、
もしわたしに良心というものがあれば、いくら大事件がおこっても、びくともするものではありません!」と。

何かあると、すぐに恐れおののく。
猫の目が変わるように、心が動く――そうした生き方は人間として不幸である。

風の吹くままに翻弄される小枝のごとく、安心もなければ、充実も歓喜もない。
右往左往したあげく、だれからも軽蔑され、見捨てられてしまう。

大切なのは、確固たる「心の羅針盤」である。
「良心」が、「真実」が、「哲学」が、胸に根づいて生きているかどうか。
形ではない。
心である。
内実である。

わが心の大地に、確固たる根を張った人は強い。
その人こそ、「人生の勝利」の黄金の実りを味わえる人である。

吹く風は強く、冷たくとも、わが家があたたかければ、何の心配もない。
堅固なビルディングは大嵐にも動じない。
自分がどうかである。
人ではない。

真の信仰者には一切が成仏への善知識となる。
そして、嵐のあとは爽快な青空を仰いで生きることができる。
この痛快な繰り返しに、三世にわたる生命の浄化の道がある。

【第一回第二東京総会 平成三年四月二日(全集七十六巻)】