【小説「九十三年」革命は死なり】池田先生指導②
投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月12日(水)13時41分15秒

「民衆の幸福」のための宗教であるはずなのに、
いつしか宗教が民衆を見くだし、手段とし、食い物にし、奴隷としていく。
こうした流転は、歴史上枚挙にいとまがない。

ともあれ、悪は、見抜かねばならない。
だまされてはならない。
打ち勝たねばならない。
正義のため、民衆のため、自分自身のために。

そして、こうした権力の魔性のはてしなき悲劇を、断じて後世に伝えようと、ユゴーがペンを執ったのが『九十三年
』である。

ユゴーは、「あくまでもヒューマニズム(人道主義)を貫きとおそう」とする主人公の一人、
青年ゴーヴァンに、こう語らせている。

「自由と平等と友愛とは、平和と調和の教義です。
こういう教義に対して、どうしておそろしい容貌をあたえるのですか?」(榊原晃三訳、潮文庫)と。

自由、平等、友愛――。
これらは、フランス革命の根本の精神である。
平和と調和のための根本の理念である。

《教義》はこのように人間性に満ちみちているのに、それを用いる人々が、なぜかくも冷酷で非人間的な行為に走
るのか?

絶対に許すことはできない!
――ゴーヴァンの叫びは、そのままユゴー自身の叫びであった。

ゴーヴァンは
「いったい、われわれはなにを望んでいるのでしょう? 世界的な共和国のもとで、民衆たちの心をつかむことです

ですから、民衆をおびえさせてはいけないのです。民衆をおびやかしたって、なにになると言うのですか?」

「すばらしい理想が無慈悲な人びとによって悪用されています」(同前)と――。

「民衆の幸福」のための革命ではないか。
「民衆の心」をつかみ、導くことが目的ではないか。
その民衆を脅かし、民衆の連帯を分断して、いったい何になるのか。
本末転倒ではないか。非道ではないか。

【第一回第二東京総会 平成三年四月二日(全集七十六巻)】