投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月18日(土)08時58分31秒
ここで《根本》である御書を拝したい。
「撰時抄」では、中国の悪僧・三階禅師にふれられている。三階は、隋の時代、天台大師とほぼ同時代の僧である。

「漢土の三階禅師の云く教主釈尊の法華経は第一・第二階の正像の法門なり末代のためには我がつくれる普経なり」(御書二七九頁、以下同じ)

――中国の三階禅師が言うには、
「教主釈尊の法華経は、第一段階・第二段階の正法・像法時代の法門である。
(第三段階の)末法のためには、自分が作った『普経』という教えでなければならない」――と。

仏の経文よりも、自分が勝手に作った教えに従えというのである。
これでは、もはや「仏の教え」とはいえない。
宗教は往々にして、こうした《トリック》で民衆を欺き、縛ろうとする。
聡明な皆さまは、絶対にだまされてはならない。
どこまでも経文を、私どもでいえば、御書を根本としてこそ、「正法」なのである。

さらに、三階禅師の邪説は続く。
「法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし、末代の根機にあらざるゆへなりと申して」

――(禅師は)「法華経を今の世に行ずる者は、十方の大阿鼻地獄に堕ちるであろう。末法の機根に合わないからである」と言って――。

「堕地獄」「堕地獄」と、むやみに人々を脅そうとする。
これも腐敗した宗教の常套手段である。
本来、宗教は「人を救う」ものである。なぜ、そんなに人を地獄に堕としたがるのか。
無慈悲な言動は、それ自体、インチキの証拠であろう。

「六時の礼懺・四時の坐禅・生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかども・わづかの小女の法華経をよみしにせめられて当坐には音を失い後には大蛇になりてそこばくの檀那弟子並びに小女処女等をのみ食いしなり」

――(禅師は)一日六度の礼拝懺悔や一日四度の坐禅などを行い、生き仏のように多くの人々から尊ばれていた。
弟子も一万余人もできたのであるが、法華経を学んだ少女に責められて、その場で声が出なくなり、後には大蛇となって(本性をあらわし)多くの檀那や弟子や少女、乙女等を飲み込み、食べてしまった――と。

万余の弟子を誇った高僧も、法華経を持つ少女によって正体を暴かれてしまった。
いかなる「権威」も「正論」の前には虚しい。
少女の胸のすく活動は、今でいえば、学会の女子部の姿であろうか。

【第四十八回本部幹部会、品川・目黒区文化音楽祭 平成三年十一月二十三日(全集七十九巻)】