投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月11日(土)10時05分32秒    通報
「歴史」は、ありありと《現在》の本質を映し、私どもが進むべき《未来》を照らしてくれている。

僧侶にとって、民衆は《法を求める一個の人間》というよりも、《搾りとるだけ搾りとり、用がすめば捨て去る》という、いわば《布施製造機》と映っていたのかもしれない。仏子を尊敬するどころではない――。

苦しみあえぐ民衆。
水で飢えをしのぎ、夜ごと寒さにふるえ、自分の子どもを質に入れて食料を得る人までいた。
そうした苦悶をよそに、僧たちは毎夜のごとく、役人を接待し、酒宴を繰り広げた。
権威・権力に生きる人間は、自分より《上位》の権威・権力にこびるしかない。
そして《下位》の人々には、いばりちらす。
この、へつらいと傲慢の二重性格――。
要するに、自分というものがない。
確固たる人間性がない。
卑しいかぎりの人間になり下がっているのである。

なお、近年、発見された敦煌寺院の「収支決算表」には、さらに驚くべき実態が記録されていたという。
それによると、寺院の収入の第一位は、なんと「高利貸」による利益であった。
利子も法外で、半年で五割、期限に遅れると十割とされた。
このため支払いに追われ、窮乏した農民が多数存在した。

しかも、支払うことができず、逃亡した者がいれば、必ず保証人から徴収できるという証文まで書かせていたというのである。
これでは、もはや「出家」ではない。「商人」である。

【第十四回SGI総会、第七回中部総会、第四十七回本部幹部会 平成三年十月二十一日(全集七十九巻)】