投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月10日(金)15時41分51秒    通報
仏法の修得すべきは、「戒・定・慧」の三学ですが、長老派の弟子たちはこの「戒」だけに重点をおいていました。
それに対し、大衆部にしてみれば、自分たちこそ釈尊の教え通りに、大衆のなかへ入って、大衆とともに語り、悩み、仏道修行に励んでいるという自負があったのだと思います。

そうしたこともあって、ヴァイシャーリーの弟子たちは、長老派の決定にどうしても承服することができなかった。
ヴァッジ出身の弟子たちは、七百人の弟子による第二結集が終わったあと、一万人の弟子を集めて、長老派とは別の会議をもったとされ、やがて彼らは「大衆部」という部派を形成することになっていきます。

後に、「始めの百年中には、なんら分裂としてなかりしも、第二の百年に入りて、勝者(釈尊)の教中に十七の異派生ぜり」(『南伝大蔵経』第六十巻)、と記されている通りです。

その後、釈尊滅後二百年から三百年にかけて、上座部系が十二部、大衆部系が六部、また漢訳仏典には、上座部系が十一部、大衆部系が九部、合わせて二十部とあります。
こうして、「部派仏教」の時代を迎えていくのです。

池田先生は、
「私には、長老派、いわゆる上座部派の教団側にその原因があったように思われてならない。
これはあくまでも私の推測だが、後に大乗教徒によって『小乗教』と非難されたように、部派仏教時代の上座部系教団は、釈尊在世中の生き生きした脈動を忘れて、大衆から遊離し、権威主義に陥っていたのではないだろうか。
もし彼らが、釈尊の教えを見失うことがなければ、これほどの分裂はなかったはずだ。
しかし、別の一面からいえば、仏法が釈尊一人のものから万人のものとなるために、経なければならない道程だったかもしれない。
いわば、胎動の苦悩の時期とも考えられる。
あらゆる論が出されて、それがさらに大河となって流れる時を待っていたにちがいない」

と述べられ、

「一応は上座部が正統派で、大衆部が異端であるかのようにみえるかもしれない。
しかし問題は、仏教本来の精神に照らして、いずれが正統派であるかといえば、苦悩に沈む民衆のなかに飛びこみ、一人でも多くの人を救ったほうが、真実の正統派であるといえる」
(私の仏教観 四十二頁)と結論付けています。