投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 9日(木)14時26分19秒    通報
――《無実の罪を着せて処分する》というのも、権威・権力が、信仰を弾圧するさいの典型的なパターンである。

大聖人に対する伊豆流罪、佐渡流罪等も、悪口の罪などの無実の罪を着せられて処分されたと推定されている。

今回の宗門問題でも、いわゆる「一一・一六のスピーチ」が発端のように宗門は偽装してきたが、決してそうではない。
スピーチに対する宗門の批判は、盗み取りしたテープをもとに、しかも誤った反訳をしたうえで、それに曲解と歪曲を加えたものであり、学会が事実誤認を指摘すると、柱となる項目について「お詫びし、撤回します」という、お粗末なものであった。

もともと、なんら批判されるような内容ではないにもかかわらず、意図的にこじつけて誹謗する――すべて、おとしいれんがための言いがかりにすぎなかった。
なお、正本堂の意義に関して、
「日達上人も言われていなかったことを、信徒の分際で先んじて断定した、慢心である」と批判してきたことも、すぐに、「日達上人の確かなお言葉があったので訂正する」と撤回している。

日達上人のご指南を正しくふまえた発言だったことを認めたわけであり、初めから批判すべき点などなかったのである。
何の証拠もなく、初めから有罪と決めつける――まさに冤罪事件の典型であろう

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】