投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 9日(木)14時25分36秒    通報
暴力への《応戦》――現代では民衆の《大言論戦》が、正義の主張の展開につぐ展開が、それにあたろう。
語りに語ることだ。
声は力である。
語った分だけ正義は広がっていく。
広宣流布が広がっていく。

ともあれ、《迫害する側》に、人々を納得させる道理がないからこそ、力によって正義を押しつぶそうとするのである。
すなわち、権威・権力や暴力など、力による迫害を加える者は、本質的には、また仏法の眼から見れば、すでに《迫害される側》の民衆に敗北しているのである。
やがて必ず滅びていく。

行智らは、捕らえた二十人を下方政所へ連行した。
そして弥藤次が訴人(告訴人)となって訴状を提出し、すぐに鎌倉へ送った。
二十人に着せられた訴状は、現在でいえば不法侵入、強盗、暴行、傷害であった。
もとより、事実無根の濡れ衣である。

その訴状の内容について、御書にこう仰せである。
「今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ」(御書八五二頁)

――今月(九月)二十一日、多数の人数を集め、弓矢を持って、(滝泉寺の)院主の坊内に打ち入り、下野房日秀は馬に乗って、熱原の農民・紀次郎は(院主の田に)立札を立てて、実った稲穂を刈り取り、日秀の住坊に運び込んだ――と。

《それが原因で争いになり、死人や負傷者が出るに及んだ。
したがって早くこの乱暴人を召して、式目(幕府の法令)どおりに裁いていただきたい》と訴えたのである。

まさに《でたらめ》である。
事実と正反対である。
さらに、彼らは卑劣にも、熱原の信徒、四郎や弥四郎の傷害・殺人事件まで、下野房などの犯行であろうと讒訴した。
もちろん、こうした罪状はたんなる口実で、日蓮門下の信仰を弾圧するのが目的であったことは明らかである。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】