2014年10月2日 万年の鏡と公式② 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月 2日(木)12時30分55秒 通報 仏法を知らない日向は、日興上人を「外道」よばわりした。 仏法を究めておられる日興上人は、反対に「外典を学べ」と強く主張された。 ここには、対照的な仏法観があると思われる。 すなわち、一部の専門家だけに通用するような、狭い世界に仏法を閉じ込めるか、「一切法皆是仏法」と、大きく開いていくかである。 「外典」を知らずして、どうして外に広宣流布できようか。 わかりやすく対比すれば、日向のは《死せる仏法》であり、日興上人は《生きた仏法》を教えられたと拝される。 そして、この《生きた仏法》の正流を継いでいるのがSGIなのである。 はじめに戸田先生の言葉を引いて述べたように、妙法を根底にする時、一切法は、おのおの最も価値的な働きを始める。 政治、経済、学問をはじめ、すべてが生き生きと活性化していく。開いてくる。蘇生してくる。 その「一切法」への脈動に仏法の生命があり、「一切法」と離れてしまっては、仏法の力を十分に発揮させることもできない。 また、日向は、学問のある日興上人を妬んでいたのかもしれない。 哲学者キルケゴールは「行動と情熱がなくなると、その世界は、妬みに支配される」と指摘した。 この一点に、彼の「現代批判」の核心もあった。 すべてを《水平化》させる――すなわち足を引っぱる悪知、と。 ともあれ、仏法は、社会へ、時代へ、民衆へと、つねに生き生きと脈動すべきものである。 戸田先生はある講義で、質問を受けた。 「インド・中国で仏法は滅びたと言われるが、そこには、ちゃんと経典もあるではないか」との問いである。 戸田先生は、強い調子で答えられた。 「経典があると言ったって、経典は仏法じゃありません。あれは本ですよ、本です!信仰がなければただの本にすぎないのであって、いくら経典や、寺があったって、もはや仏法は死んでいるのです」――と。 たとえば、いくら大聖人の御真筆があっても、《邪宗》となった寺に大聖人の仏法の生命はない。 仏法の生命は、生きた「正しき信心」にある。 その「信心」を伝え、仏法の生命を伝えるのが「師弟」の関係である。 大聖人、日興上人の仰せどおりに進んでこそ、仏法は万年に清らかに流れていく。 師敵対の「日向の末流」に従っては、仏法の心を殺す大罪となる。 師敵対の日向は、何重もの意味で、大聖人の仏法を破壊しようとした。 このコントラスト(対照)は、万年までの鏡である。 【第一回アメリカ青年研修会 平成三年十月一日(大作全集七十八巻)】 Tweet