日興上人と立正安国論。①

投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 1日(水)10時24分48秒    通報
昨日、日興上人の身延離山にまつわる話を少々、語ったが、さらに本日もふれておきたい。
地頭の波木井実長の謗法を容認し、助長させて、身延を《濁流》にさせた根源は、堕落僧の民部日向(五老僧の一人)にある。

日向の邪見の一つに、日興上人を「外典読み」と悪口したことがある。
(外典とは、外道、すなわち仏教以外の書籍をいう。インドのバラモンの経書や、中国の儒教、道教等の経書をさす。「外典読み」とは、外道の説のように偏った、浅い読み方であるということ)

日興上人が日蓮大聖人の「立正安国論」の御精神を厳格に守り、その仰せどおり、神社参詣は許されないと波木井に伝えたところ、波木井は日向に相談した。

すると日向は「日興は《外典読み》で安国論を一面的にしか読んでいない。もっと深い真意を知らないのだ」と、波木井に吹き込んだのである。

日興上人の「原殿御返事」には、そうした日向の言葉が伝えられている。
「守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を詠みて至極を知らざる者にて候」(編年体御書一七三一頁)

――(日向が波木井に言うには)守護の諸天善神がこの国を去っているということは、安国論の一編で説くところであるが、白蓮阿闍梨(日興上人)は、外典読みに偏って一方のみを読んで、安国論の真意を知らない人間なのである――。

日向は「だから謗法の神社に参詣してもかまわない。法華経を受持した者が参詣したら、諸天善神も、その社に集まってくるのであるから、どんどん参詣しなさい」と波木井を煽ったのである。

波木井は、自分にとって都合の良いこの邪義を、完全に信用してしまった。
「日向上人は話のわかる人だ」と喜んだであろう。
在家の堕落の影には、必ずといってよいほど、世渡りのみ上手な堕落僧の手引きがある。

信心を失った波木井にとって、大聖人の教えを厳格に守られる「謗法厳誡」の日興上人は、もはや煙たい存在でしかなかった。
日興上人は、日向の「謗法容認」の邪義に対し、これは「天魔の所為」であり、「師敵対」「七逆罪」(五逆罪に加えて和尚を殺す、阿闍梨を殺すの二罪)とされた。

大聖人の教えを守り、弘める立場にありながら、かえって先師の教えをゆがめ、勝手に改変するとは――。
まさに「天魔」のなせるわざであり、「師敵対」「七逆罪」という極悪の僧である、と。

この史実には、重要な教訓がある。
その一つは、「師匠の死後、師敵対する人間は、どんな文証があっても、『それにはもっと深い意味があるのだ』などと言って、自己を正当化する」という行動パターンである。

仏法上、師敵対の罪は重い。仏法の生命を殺すことになるからである。
「私の師匠が何を書いていようと、今の私の言うことを聞け」と、自分の邪見を通そうとする。
都合の悪い文証を出されると、
「それは一面的な読み方。真意(至極)は別にある」とごまかす。

現代の宗門も、御書と歴代上人の指南を同様の言い方で否定し、泥にまみれさせ、葬ろうとしている。
(たとえば日達上人の「正本堂」への見解も、二十年以上たってから、突然、「真意は別にある」として現宗門は否定した)

【第一回アメリカ青年研修会 平成三年十月一日(大作全集七十八巻)】