道理と常識。②

投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 1日(水)09時16分9秒    通報
八雲はこの物語を、こう結んでいる。
「僧は学識があり聖ともいわれていたが、いともたやすく狸に化かされたのである。猟師は無智で信心もなかったが、すこぶる常識に富んでいたから、生来の才覚でもって、その化けを見破り、そのおそろしい幻想を打砕いたのである。」

これは日本の昔話であり、日蓮大聖人の正法とは関係がない。
ただ、宗教が人間を愚かにする危険を、わかりやすく示す物語である。

どんなに「知識」があっても、健康な「常識」(コモン・センス)がなければ、生かすことはできない。
建国の時、独立の時のアメリカを大きく支えたのも「コモン・センス」であった。
「常識」がなければ、宗教は時に「盲信」となり「狂言」となる。
「盲信」「狂信」は、仏法ではない。

「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書一一六九頁)
――仏法というのは道理である。道理というのは主人(権力者)に勝つものである――と、大聖人は仰せである。

また「真理は単純である」という言葉がある。
反対に「うそ」をとおそうとする人間ほど、わざと話をややこしくさせるような《へ理屈》を言うものである。
また狸が菩薩に化けていたように、さも立派そうな粉飾をこらすものである。

たとえば、死身弘法の修行もないのに、仏法上の位だけは高いのだというのでは、「因果」を無視している。
それは仏法ではない。
「菩薩に化けた物怪」のような話である。
(『摩訶止観』では、経典によらない天魔の僧について「此れ乃ち仏法を滅する妖怪なり」〈大正四十六巻〉と呼んでいる)

たとえば、その位が仏と《一体不二》などというならば、その修行も《一体不二》でなければならない。
この当然の「道理」、仏法の「常識」をわきまえていれば、むずかしいことは何もない。
だまされることもない。

「正義は、現実に広宣流布を進めている人のもとにある」
「人格のおかしな人は信心もおかしい」
「くるくる言うことが変わるのは、ウソをついている証拠である」
「話し合いに応じられず、威圧的なのは、何かごまかそうとしているからであろう」

こう見ていく、当たり前の「道理」と「常識」さえあれば、こと足りるのである。
民衆の常識で判断して、おかしいものはおかしいのである。
いわんや、私どもは大聖人の御書という「明鏡」がある。
歴代上人のお言葉もある。
その鏡に照らして、おかしいものには、絶対に従ってはならない。

【カナダ・アメリカ最高代表者会議 平成三年九月三十日(大作全集七十八巻)】