投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2014年 9月 4日(木)09時21分26秒
正しい信心とは

ここで私は、本年が宗門問題が起きて、20年目という節目でもあり、宗門問題の視点から師弟について考えてみたいと思います。振り返って見れば、宗門問題が私達に提示した問題とは何であったのか?それは究極的には正しい信心とは何か。と言う点であったと思います。ある意味で学会の信心と、日顕宗の信心と、どこが違うのか?拝んでいる御本尊も同じです。唱えている勤行唱題も同じ。読んでいる御書も同じです。じゃどこが一体違うのか。私はこのように考えます。大聖人は御書の中で、ただ漫然と御本尊を拝み唱題をしていて、功徳があるとは決して仰ってはおられません。例えば、有名な御書の一節に「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」P1262
もう少し抱きかかえて頂けませんかと思うような(笑)そういう御書もありますね。祈る側の一念で決まる。と大聖人が明確に仰っています。そして「かかる日蓮を用いぬるとも あしくうやまはば国亡ぶべし」P919こう仰っています。例え、日蓮大聖人を用いたとしても、敬い方が間違っていれば国は滅ぶであろう。つまり大聖人を尊敬する格好を見せていても大聖人のお心に背いていれば国は滅ぶ、と言われている訳です。御本尊は正しく拝してこそ功徳がある。題目も正しく唱えてこそ功徳がある訳です。御書も同じで、間違って御書を読んでいたんでは、御書を拝した事にはならないですね。正しく拝してこそ、初めて御書を読んだと言えるわけです。そこまで皆さんよろしいですよね。

師弟を求める意味

でも、ここで一つ問題が起きてきます。皆さんご自分一人で御書を読んで全部解るっていう方います?そう言う方がいたら今すぐ私と変わって頂きたい(笑)私達は意味を理解する前に字が分からない。この字何て読むんだって言ってる私達に御書が一人で正しく解釈する事ができません。じゃぁどうすれば正しく御書をはいし、読む事が出来るのか。その方法はたった一つなんです。何にも難しい事はありません。自分一人で御書を正しく解釈できないのだから、正しく解釈出来る人に教えてもらうしかありませんよね。ここに師匠のありがたさがある。そう思います。もちろん当然ながら、師匠は誰でも良いというわけではありません。一体誰が御書を実践し語れる人なのか。誰が真に師匠と呼ぶにふさわしい人なのか。またそれをいかなる基準で、この人は正しい人だと判断するのか。ここが大事ですよね。日顕のような師匠に値しないような、そんな人間を信じたら、これ程愚かな事はありません。で、この点に関して大聖人は御書の各所で正しい法華経の行者とは、どういう人なのかという事についてその基準を明確に述べられております。それを端的に述べられた御文の開目抄に「日蓮が法華経の智解は天台、伝教には千万が一にもおよぶ事はなけれども、難をしのび慈悲の優れたるはおそれをも抱くであろう」
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では、誰が本当に正しく御書を読んでいるのか。何をもって正しく読んでいるといえるのか。それは御書の通り現実に難にあい、広宣流布を進めた人こそ御書を正しく読んだ人であり、師匠に値する人であると断言できます。
つまり創価学会の三代の会長、なかんずく池田先生以外には断じていないと思いますが、皆さんいかがでしょうか。

池田先生が御書をどのように拝し実践をされているか。それを学ばずして正しい仏法の実践はありません。だから学会は師弟を大事にします。いや仏法を正しく実践する要諦は正しい師匠の元で、師弟の道を歩む以外にない。こう申し上げたいと思います。結論として学会の信心と日顕宗の信心との違いとは何なのか。それは学会には三代の会長という正しい師匠がいらっしゃる。日顕宗には、その師匠がいない。こう訴えたいと思います。勝利の教典「御書」に学ぶの講義で、池田先生は次のように述べておられます。「勝利への要諦は、どこまでも法を体現し弘通する師匠の心と我が心を合致させる事です。師匠の指導ををないがしろにして、揺れ動く自分の心を基準にすれば、険しい仏道修行を成就する事は出来ないからです。『心の師とはなるとも心を師とせざれ』(兄弟抄1088)です。師弟の心を忘れてしまえば、我が一生成仏はありません。」とこう述べられています。池田先生こそ大聖人に連なる法を体現し、弘通する師匠です。この偉大な師匠と共に戦える。これ程の幸せはありません。私どもは、どこまでも池田先生の弟子である誇りを胸に進んで参りたいと思います。