投稿者:ジョーカー 投稿日:2018年 9月22日(土)01時40分39秒   通報
御書P931
「法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ、念仏者と持斎と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をばいかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし、かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」

通解
「法華経を信ずる人は、用心を重ねて、法華経の敵を恐れていきなさい。念仏者と持斎と真言師とそのほか一切の南無妙法蓮華経と唱えない者に対して、どんなに法華経を誦んでも法華経の敵であると知っていきなさい。敵を知らなければ敵にだまされてしまう。」

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法華経の敵とは一体誰なのか。定義が曖昧であれば、だまされ、見破ることは出来ない。現代において、法華経の敵とは、「創価三代の指導を蔑ろにし、人間主義を破壊する一切のもの」と私は定義する。外の敵よりも、一番恐ろしいのは内部の敵である。法華経の敵は、内部の中に現れ、信心を壊していく。

信心は一念の世界であるが故に、役職や功績は一切関係ない。どれほど功績があろうとも、法華経の敵となれば福運を消し、広宣流布を阻む魔の存在となる。反対に、法華経の味方となれば、無限に福運を積むことが出来る。ここでいう法華経の味方とは、「創価三代の指導を大切にし、人間主義を構築する一切のもの」と、定義する。

疑問やおかしいと思うことに対し、堂々と声を上げて良いのが人間主義の世界である。その声に対し、納得と調和ではなく、圧力と排除をもって応対すれば、それが人間主義を破壊する行為となる。これ、法華経の敵であることを知らねばならない。実に、法華経の敵とは、自分自身が、法華経の敵となっていることに気付くことができないところに恐ろしさがある。

54年は、弟子が法華経の敵となり、法華経の味方である師を排除した。人間主義の破壊に対し、人間主義の構築をもって応戦する。法華経の味方は誰人も犠牲にしない。法華経の敵は、多少の犠牲はやむをえないという冷酷性が根本にある。これ、万人成仏の法華経にあらずであるが故に、法華経の敵なのである。

なによりも、自分自身が法華経の敵となることを恐れなければならない。いかに、法華経を行じているように見えても、一念が法華経の敵となれば、何にもならない。組織主義に染まれば、知らず知らずのうちに、自分自身が法華経の敵となってしまう。組織は両刃の剣であることを意識し、用心に用心を重ねなければならない。

創価三代の指導を、「時代に合わない」と簡単に切り捨て、軽く考える人間には注意すべきである。そもそも、時代に合わせるのではなく、時代を創るのが創価学会の使命である。断固として、人間主義の時代を創る一念こそが、法華経の味方である。「時代」という便利な言葉を安易に用い、三代会長の指導を蔑ろにする人間が、創価の世界を壊すのである。

仏法は勝負である。法華経の味方となるか、敵となるか。中間は存在しない。法華経の味方として立ち上がれば、人生は大きく変わる。法華経の敵となれば、何が正しいかわからなくなる。頭が七つに破れるとはこのことである。なにがあろうと、法華経の味方として生き続けることが肝心要であり、守るべきものなのである。