投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月29日(土)10時16分8秒   通報
【トインビー】 ニュルンベルグ軍事裁判と東京裁判は、戦争に対する人類の姿勢に、一つの歴史的転換がなされたことを象徴し、かつ宣布するものでした。両裁判の意義は、明らかに犯罪である戦争が、ここに初めて犯罪として認識されるようになったところにあります。戦争は、この両裁判によって、かつて神聖なるがゆえに人為的な法の拘束は受けないとされていた主権国政府の、合法的特典としての立場を失ったわけです。
しかし、これら二つの裁判も、ある意味では公正さを欠くものでした。いずれも戦勝国が敗戦国に対してとり行なった裁判であること、そして戦勝国が、戦勝国側の政治家、軍当局者を誰一人として裁かなかったことです。彼らのうち何人かは、同じ罪科によって公平に起訴されるべきだったのです。

【池田】 そこで、この戦争犯罪人ということを、今後どう考えるべきかが問題になると思います。第二次大戦後のように、今後も裁判が行なわれるべきか否か――。行なわれるべきだとすれば、それはどのような人々を対象とし、どういう形で、何を基準として行なうか、といった点が問題になるでしょう。

【トインビー】 ある制度に参加する者はすべて、その制度の統率者が参加者の名においてとるあらゆる措置に対して、自らもある程度の個人的責任があるものです。仮に、アメリカの選挙民がベトナム戦争での自国戦犯を裁く軍事法廷を設けるものとすれば、その場合、告発の対象は大統領、司令長官、軍民の属官だけに限るべきでないと思います。アメリカの選挙民は、こぞって自らを告発しなければなりません。民主的立憲国家においては、最終責任は選挙民自身にあるからです。

【池田】 この戦争という問題一つを考えてみても、現在のような国家のあり方は、根本的に変革しなければならないことが明らかですね。
もちろん、これまでも論じ合ってきましたように、将来における理想的形態は、世界連邦が実現され、従来のような意味での国家が解消されなければなりません。しかし、将来、その方向に導いていくためには一時的・便宜的であるにせよ、現在のわれわれの国家というものに対する考え方の変革が、なされなければならないと思うのです。
私は、国家とは、社会的、文化的特質を示す地域単位であり、あるいは行政上の単位であるといった考え方で十分ではないかと考えています。国家の横暴を抑制するには、全世界の人々がそういう考え方に徹すべきであると思います。

【トインビー】 地方国家はその主権を剥奪されるべきであり、すべて全地球的な世界政府の主権のもとに従属させるべきである、というのが私の持論です。そうなってもなお、現在の地方国家は、地方行政上の単位として、有益な、また実際になくてはならない地方自治の役割を、担い続けることでしょう。――ちょうど連邦国家において、その構成各国が演じているような役割です。
私は、人間の諸活動の規模が拡大し続けるにつれ、地方国家が個別的にもつ現在の行政的権限は、しだいに世界政府の手に移ることになると予想しています。ただし、職務によっては、世界的規模の統一はどうしても無理で、行政的にも、地方に分散させておいたほうが便利だというものも、おそらく残存することでしょう。
このような考察をめぐらせばめぐらすほど、ますます私は、あなたのお考え通り、現代世界の地方国家百四十か国は、いつまでも、戦争遂行権や非軍事的な人事万般への最終発言権をもつ政治単位としてとどまっていてはならないし、またとどまることもできない――という考えに帰着せざるをえないのです。

【池田】 国家と個人の関係において、博士御自身は現在の国家をどのように意識し、評価しておられますか。また、個人的な期待として、将来、国家はどうあるべきだとお考えでしょうか。

【トインビー】 私個人としては、自分が一市民として帰属している国家を、水道やガスや電気を供給してくれる公共事業体のようなもの、とみなしております。税金を払うのは、他の支払いと同じく、私の市民としての義務だと感じています。また、自分の所得について税務当局に偽りなく申告するのは、私の道義的義務だとも感じています。
しかし、国家のために、自分の生命を戦争で犠牲にしなければならない良心的義務は、私にも他の市民にもないと考えております。ましてや、他国家の市民を殺害したり、不具にしたり、彼らの国土を荒廃させたりする義務や権利は、われわれにはまったくないと思っています。私が最大の忠誠心を払うのは人類に対してであって、私の属する地方国家に対してでもなければ、この国家を支配している体制に対してでもありません。
しかし、私のこうした態度も、まだたんに一個人のそれにすぎません。地方国家の権限を私が適正かつ正当と考える機能だけに限るためには、すべての人類の考え方が、従来のような地方国家への宗教的献身を捨てる方向に変わる必要があるでしょう。私は、国家の神聖さが否定され、人間以外の自然こそが、神聖さを取り戻してほしいものだと思っています。