投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月28日(金)09時34分13秒   通報
【池田】 さらに、第四の原因としてあげなければならないのは、“体制”と“人間”とはまったく対立するものだ、という見方が強くなっていることでしょう。この対立観においては、国家は“体制”を代表するものの筆頭であるとみられています。それほどに、国家権力の横暴や権威主義に対して、人々が強い反感を抱くようになってきているわけです。

【トインビー】 しかし、その点は今日に始まったことではありません。私は、いかなる形態の国家も常に“体制”の支配下にあった、または体制者によって“体制”の権益に奉仕するよう操作されてきた、と信じています。
したがって、いつの場合にも、大衆は“体制”から疎外されると、そのかぎりにおいて、自分たちを治める国家そのものに対しても敵意を抱いたのです。

【池田】 おっしゃる通り、疎外された大衆が国家に敵意を抱くのは、いつの時代にもみられた現象です。しかしその疎外が、意識のうえでも事実のうえでも、今日ほど広範囲の大衆に及んでいることは、かつてなかったといえるのではないでしょうか。事実のうえで顕著な例として、私は戦争の場合をあげることができると思います。現代では、国家はすべての国民を戦争に巻き込み、その生命と財産を危険にさらします。かつては、戦争においてそうした危険を冒すのは特定の階級の人々で、志望者に限られていたわけですが、近代国家においては徴兵制により、すべての国民のうえに死の危険がのしかかるようになりました。
一九一四年に勃発した第一次大戦以来、戦争はきわめて凶悪化し、残酷さを増しています。このことも、国家を絶対的な存在と信ずる大衆の信頼が崩されることになった、一つの理由だと思います。

【トインビー】 たしかに一九一四年以来、戦争の性格が大きく変化し、凶悪化したため、国家が信じられなくなったのは事実です。二十世紀の戦争は、世界中いたるところで、かつて十七世紀西欧の戦争で犯されたと同じ類いの、残虐行為を犯しています。十七世紀の戦争は、十八世紀や十九世紀の戦争より狂暴で、流血も激しかったのでした。
一九一四年以降、再び戦争につきものとなった残虐行為を別としても、いわゆる合法的な戦争行為ですら、もはや手が施せないほど破壊的な結果をもたらしています。軍人の死傷者は膨大な数にのぼり、民間人の死傷者数も同じく増えています。これは武器の改良――航空機やミサイルに搭載される核爆弾の発明――が、かつての戦闘員と非戦闘員の区別をなくしてしまったからです。ベトナムでは、枯葉作戦が農村地帯を急激に荒廃させました。今日、農業への除虫剤投入の度が過ぎて世界各地の田園地帯がしだいに荒廃しつつあるわけですが、ベトナムでは同じことが、より急激なやり方で行なわれたのでした。

【池田】 国家の権威失墜をもたらした要因は、そのようにいくつもあるわけですが、これらは実際には複雑に絡み合っています。このことに関連して、一つの象徴的な意味をもつものとして、私は、第二次大戦後の軍事裁判をあげたいと思います。
あの裁判は、戦勝国が敗戦国の戦争責任者を裁き、「平和と人道に反する罪」によって処刑したものです。非人道的行為は戦勝国側の将兵にも当然あったにもかかわらず、敗戦国の責任者が戦勝者によって一方的に裁かれ、また十分な裏づけもないままに処断された例も少なからずあって、裁判の内容に厳正さを欠く面がありました。
それはともかく、この軍事裁判には――おそらく当初意図されずに得られた結果として――高く評価すべき点もあったと思います。その一つは、“平和”とか“人道”ということが、侵すべからざる厳粛な価値をもつものであると、事実上確認されたことです。つまり、軍の命令や国家の指示であっても、“平和”と“人道”を侵した者は処罰されるという事実を、歴史に残したといえるでしょう。
これとは対照的に、第一次大戦においては、敗戦国ドイツの皇帝も、将軍たちも、罪に問われることはありませんでした。国家のなすことがどんな悲惨な結果をもたらしても、それに対して罪名をあてがうことはなかったわけです。ところが、第二次大戦後には、“国家の意志”を絶対視し“国家”そのものを尊厳なものとする既成概念が、その一角から事実上打ち破られています。このように、軍事裁判が意味したものは、国家権威の絶対性の否定であり、そこに現代の歴史を彩る重要な特質が、象徴的に示されていると思います。