投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月12日(月)08時03分37秒   通報
【トインビー】 実質的な平均勤労年限が延びることは、たしかに個人にとっても社会にとっても助かることですが、しかし、それは、今日の都市化文明、オートメーション文明のなかで、老人問題を未解決のまま引き延ばすだけのことです。
ただし、老人のなかでも、肉体活動でなく精神活動を要する社会的に有意義な職業をもつ人、また知力と活力を死ぬまで保ち続ける人については、老齢にともなう問題は起きません。私は、九十歳を過ぎてもなお、知力を失わなかった頭脳労働者を、少なくとも三人知っています。しかしまた、肉体の死が訪れる前に精神の死を迎えてしまった、つまり耄碌してしまった知人もあります。これは恐ろしい運命に陥ったということですが、実際にそういう人が増えているのです。
現代医学は、肉体的寿命を延ばすことにかけては驚嘆すべき成功を収めていますが、知力の寿命を延ばすことに関しては、さほど成功しておりません。今日、老耄化した人間を、医師の手に新たにゆだねられた手段によって肉体だけでも生かし続けるべきなのか、それともその屈辱的な生ける屍の状態から自然が患者を解放するのに任せたほうがよいのか、その決定が非常に重大な問題になっています。
知力を死ぬまで保ち続けられることは、誰にとっても幸運なことです。なかんずく、頭脳労働者にとって幸運であるのはいうまでもありません。大多数の人々は、しかし、肉体労働者であるわけです。私は、身体がいうことをきかなくなって労働をやめざるをえなくなり、生きがいのない無為の余生を何年も送るという、わびしい見通ししかもてなくなった農業従事者を何人も知っています。

【池田】 御指摘の通り、人口の大部分を占める肉体労働者の老後をどうするかは、最もむずかしい問題です。
私は、養老施設をつくるにも、老人に各人の能力に応じた仕事を与え、張り合いをもたせるような、生きた養老施設にすることが、老人への最大の贈り物になると思います。老耄化によって、壮年期にやってきた仕事はもはやできなくなる場合も少なくないでしょう。しかし、ある能力は衰えてしまったとしても、まだ別の能力は残っているはずです。そうした実情を正しく把握し、その能力によって社会生活に参画できるようリードしてあげる機関が必要でしょう。
トインビー博士が御高齢にもかかわらず、なおかくしゃくとして、世界の人々に多大な影響を与え続けておられるのは、博士の存在、あなたとの対話を世界が必要とし続け、博士御自身もそのことを自覚しておられるからではないでしょうか。他の高齢者も、それに似た自覚、人生の充実感を、それぞれ分野こそ違え、もてるようになれば問題はないわけです。しかし、実情はそうではありません。私は、老人を必要とすることが、最も老人を尊敬することになるということを、社会がもっと認識すべきであると思います。

【トインビー】 私はいま八十五歳という年齢でありながら、まれにみる幸運に恵まれています。
幸い妻も健在ですので、私は、夫婦という人生で最も貴重な人間関係をいまだにもっているわけです。頭脳のほうも、まだ損われずにすんでおります。ただし先年、冠状血栓症を患って以来、体力のほうは衰えましたが――。しかし、まだ口頭や文書で質問に答えることはできますし、記事や著書の執筆にも耐えられます。さらに幸いなことには、他の人たちが私の著書や記事の発表を望んで、いまだにテレビ・インタビューや、テープ吹き込みとか文書による質問を寄せてきています。
このような恵まれた状況のなかで長生きすればするほど、私は、第一次世界大戦中に二十代の若さで戦死した、私と同世代の人々の運命を嘆き悲しまずにはおられません。さらにまた悲しみをさそわれるのは、私の終生の友人で、私より三か月ほど年下だった男のことです。彼はすでに亡くなりましたが、それは彼にとってむしろ幸せなことでした。というのも、死ぬ前の彼は、老耄化がしだいに激しくなっていたからです。しかも、その老耄化の度合いも、自分に訪れている運命を感じなくなるほどのものではなく、そのためかえって苦しみ続けなければならなかったのです。

【池田】それは、まことにお気の毒な方でした。博士のお気持ちも、私にはよくわかります。仏法でも“老い”は、生老病死という人生の四苦の一つとしてあげられておりますが、“老い”それ自体は、いかんともしがたい問題です。しかし、その時にあたってどのように生きていくかは、多分にその人の内なる力と人生観によって決まるといえましょう。それはすぐれて宗教的分野の問題といえます。
結局、老人への福祉は、決して物質的なものだけであってはならず、精神的な面をも兼ねそなえた、人間味のある、真の意味での福祉でなければならないことが明らかなわけです。そのためには、やはり老人が自己の道を切り拓くためのチャンスが、社会的に最大限与えられていなければならないと考えます。