投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月 6日(火)10時37分15秒   通報
【トインビー】 医学、医療は、まぎれもなく治癒術であるべきです。内科医、外科医を問わず、およそ医師が自らの尊厳を支えるためには、まず人間同胞への奉仕を第一の関心事とし、そのことを、自分や家族の生活費を稼ぐことに優先させることが要請されます。もちろん、自由業にもそうした経済的な副産物があってしかるべきですし、それは必要なことでもありますが――。

【池田】 残念なことに、医師は“仁術”を行なうものであるという、人々の医師への信頼感は、今日では薄れてしまっています。その結果、医療は本来、医師と患者の相互の人格交流に基づくものであるにもかかわらず、いまやそれが崩壊に瀕している状態です。 こうした医師の倫理観の喪失は、私は、人間としての医師個人個人の姿勢自体に、一つの原因があると思います。もう一つの原因は文明社会全般にある生命軽視の風潮で、西洋近代科学を基礎とする医学そのもののなかにこれを増長する要素があり、それが医者をして医学の力を悪用する方向へと走らせているのではないでしょうか。

【トインビー】 あなたの推測は正しいようです。近年、アメリカでは、医師たちがその職業をもっばら自分個人の金儲け仕事としてのみ遂行しており、もはや一般への奉仕などと考えていないということで、社会から非難されています。たしかに、内科専門医にせよ、外科専門医にせよ、自分の技術をできるだけ高値で売りつけることを何よりも大事に思うような医師は、老練な医療技術の持ち主ではありえても、患者にとって人間的で思いやりのある友人には、到底なれないでしょう。
一人の医師が、感情の通い合う人間関係を必要とする患者の友人という立場と、感情抜きの作業を必要とする冷静な科学者という立場を、同時に兼ねそなえることは可能でしょうか。医師と軍人とを比べた場合、人に恩恵を施すのが前者であり、人に害を加えるのが後者の職務です。しかし、この両者には、一つの共通する特徴があります。それは、医師も軍人も、ともにその職業柄、心身の苦痛、死への恐怖、死それ自体、死別の悲しみといったことを、常に目のあたりにしていなければならないことです。これでは、感情を抜きにしないかぎり、効果的に職務を遂行することはできないでしょう。しかし、医師の場合は、感情を殺したうえで、なおかつ思いやりがあるというのでなければ、十分に適性ある本物の医者とはいえないでしょう。

【池田】 非常に深い、適切な御指摘です。そういった本物の医師が少なくなってきたことは、医師の倫理観の喪失についてさきほどあげた原因のうち、医師個人個人の姿勢という点からも考えるべきですし、また、医学の偏った進歩の仕方という点からも検討する必要があると思います。
申すまでもありませんが、現代医学はデカルト以来の科学的思考法に立脚しています。科学は、医学に疾病究明のための有効な手段を与え、そのおかげで、現代医学は長足の進歩を遂げてきました。しかし反面、科学はあらゆるものを客観視し、突きはなし、理性の“メス”で切るという性質を内包しています。したがって、自然界を科学の眼で見るとき、自然は自己とは切り離された客観的存在となってしまいます。同様にして、人間生命に科学の光を当てるとき、人間の生命自体が、医師との精神的交流を断たれた客体となってしまいます。ここに、人間生命の“物質化”が当然起きるわけです。
こうした医学の医師に与える心理的影響をあらわす例として、私の知人である医師から聞いた言葉は、いまもきわめて印象的に胸に焼きついています。それは、外科医を長く続けていると、ベッドに横たわっているのは生きた人間ではなく、一個の肉体という“物質”にすぎないように思えてくる、というのです。
こうして、医師が科学的思考法に精通すればするほど、その医師の心は、人間を物質視する危険性に絶えずさらされることになります。ここに、現代医学のもつ逃れられないジレンマがあると思うのです。つまり、現代医学そのものが、それを駆使する医師の人格を変え、医師から生命自体に対する尊厳観を奪い続けることになるわけです。
医学は、本質的に理性の光に照らされた冷徹な科学的思考法を必要としますが、それと同時に、いやそれ以上に、温かい人間的な心情が要求されます。相手の生命をあくまでも主観的にとらえ、血の通った精神的な交流を尊いものとする姿勢が、どうしても必要とされるでしょう。