2017年5月23日 投稿者:まなこ 投稿日:2017年 5月23日(火)09時16分39秒 通報 ◆ (4)男女共学の得失 【池田】 日本の教育は、儒教道徳の影響で、第二次大戦の終わりまでは、男女別々に行なわれてきました。しかし、戦後は、公立の学校では小学校から大学に至るまで、男女共学制がとられるようになりました。イギリスでも、男女共学については比較的歴史が浅いと聞いておりますが、博士は、男女共学の得失について、どのようにお考えになりますか。 【トインビー】 イギリスでは、男女共学は一八七〇年まで行なわれませんでした。それも原則上の理由からではなく、経済的な事情によるものでした。この年に初めて公立の初等・中等学校等の制度――つまり公共の歳費でまかなわれる学校制度――が男女共学制になったのですが、大学を含めてすべての私立学校ではまだ男女別システムのままでした。 当時、イギリスには大学の数が少なく、イングランドに二つ、スコットランドに四つあるだけで、どの大学も学位の取得から女性を締め出していました。私の妻はケンブリッジ大学に学びました。彼女は、各期ごとの試験を受けることを許され、優等の成績を収めましたが、学位を取ることはできませんでした。 アメリカには、もちろんずっと以前から男女共学の単科大学があって、男女学生が一緒に授業を受け、学位を取得しています。今日では、イギリスでも、男女学生が自由に一緒の授業を受けるようになり、アメリカ流の男女共学の単科大学をつくる話も出ています。 私は、男女別、男女共学の両制度には、ともに多くの議論の余地があると思います。現在、男女共学は十三歳から十八歳までの学生たちの間に、性の紊乱というきわめて深刻な問題を生じています。一般に認められているように、若い人たちにとって、この年代はじつにむずかしい時期にあたっており、男女共学であれ、男女別であれ、この時期の教育は多くの問題にぶつかりがちなものです。近頃は、十四、五歳で若い女の子が妊娠するようなケースがしばしばあります。これは男女共学がもたらした、必然的とまではいえないにしても、実際にみられる結果であり、彼女たちはそのために大変悲しんだり、苦しんだりしています。 私が十四歳の頃は、学校はそれぞれ厳格に男女別になっていました。すでに女子大学もあり、年少の女子のための学校もありましたが、男女学生間の関係はきちんと規制されていました。お互いに顔を合わすということは、滅多になかったのです。このため、男女学生間の乱れた性関係というものはもちろんありませんでしたが、しかし、同性愛は避けられませんでした。十四歳で寄宿学校に入るまで、私は同性愛などということは聞いたこともありませんでした。ところが、入学してからはそのことがよく話題になっていましたので、私もしばしば耳にするようになったわけです。残念ながら、同性愛は寄宿学校の弊害の一つなのです。 私には、男女共学、男女別という二つの制度の長所と短所のバランスをとることは、きわめてむずかしいことだと思われます。男女を別々にすることによって、男女共学にみられる異性間の性の乱れを解消しようとすれば、今度は同性愛という、同じく深刻な問題を抱えることになるからです。 【池田】 御指摘のように、共学にも分離にも、それぞれ問題があると思います。私なりの考えを申しますと、男性同士あるいは女性同士の同性愛を悪いことだと考えるのは、あくまでも相対的な問題だと思います。ある社会では――たとえば古代ギリシアがそうでしたが――それを認めていますし、ある社会では非難しています。それに対して、男女間の性関係においては妊娠の間題があり、生命の尊厳という問題がかかわってきます。したがって、学生間にみられる同性愛と異性間の性関係とではどちらがよくないか、という選択をもし迫られるならば、私はあえて、同性愛のほうがまだ小さな悪であるといわざるをえないでしょう。 私自身、大学のほかに中学生、高校生のための学園を二つ創立しましたが、男子校と女子校に分けました。男女別の学園をつくったのは、とくに共学による性の乱れを意識したからではなく、生徒たちが学業に専念できるようにという願いからでした。もちろん、私の気持ちとしては、生徒たちの間に、同性愛などの性的な問題は起こってほしくありません。しかし、そういう問題が起こることも、あるいは考えられます。それに対しては、私としては生徒の良心に任せるべきことを主張しています。 私は、学校なり、公共の機関が個人に教えるべきことは、個人の自由な判断を尊重できるような、それぞれの人格を磨くことであり、正しい判断のための素材を与えることだと考えます。個人の判断の結果が誤っていたとすれば、それは学校がその任務を十分に果たしていない証拠であって、個人の自由に干渉することは、自らの無能と怠慢をあらわにすることにほかならないでしょう。理想主義的にすぎるかもしれませんが、私は、学校教育とは、そうあるべきだと考えています。 Tweet