投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)16時59分52秒   通報 編集済
一つの思想を伝持し、弘めていく過程において、伝持者が根本義もわからずに
勝手な理論を展開していったとしたら、もとの思想を失うことになり、

思想の体系を混乱させることになります。

だからこそ、そこで立てる指導や意見の理論が
原典に合致しているかどうかを検討するのは、極めて大事なことなのです。

このことは世間一般でも言えることです。
たとえば、ニュートン力学を大きく変えたアインシュタインの相対性理論は、

決してこれまでの物理学的成果を無視して立てた独善的なものではなく、

ニュートン力学を基礎にし、新しい実験結果を考慮に入れて組み立てた〝一歩深い〟理論です。

それまでに公(おおやけ)にされてきた考え方を継承するにせよ、否定するにせよ、

斬新で新しい思想や時代に即した展開というものは、
それを土台として新たに築き上げ、展開されていくものです。

その土台ともいえる基礎教学も学ばず、鍛錬もしないで、
信心だの、論理展開だの、と言っても、

所詮は我見であり、単なる感情論です。

人の志や精神を見ずして、いったい何が分かるのでしょうか。
精神が分からずして大聖人の行動から何が読み取れるのでしょうか。

そのようないびつな視点が、教学研鑽であるはずがないのです。

大聖人は

「この経の〝信心〟というのは、少しも我見なく経文どおりに、人の言葉を用いず、
法華経の一部に背くことがなければ仏に成るのである(通解)」(一四四三頁)

と述べています。

つまり〝信心強盛な人〟とは、少しも我見なく、人の言葉よりも、経文をさきとし、
経文通りに「信・行・学」の三つを忠実に実践している人ということです。

さらに日蓮大聖人の仏法においては、経文を縦横に駆使し、

そのうえに立って更に一歩深い生命論が展開されているのです。