2015年2月2日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時48分10秒 当時、会員の多くは生活における「罰・功徳」の現証を通じて仏法を理解していましたが、 牧口先生はより一層深く「宗教的使命」を自覚して、そのことを会員に訴えていたのです。 しかしそんな牧口先生とは裏腹に、宗門は同年八月に教師練成講習会を大石寺で開催し 「寺院にあっては庫裏に神札を祀るように」と徹底しており、難が及ばないよう必死で対策をとり、 仏法の正義に完全に背いていたのです。 日蓮正宗宗務院は、一九四二(昭和十七)年十月十日付けの院達で、毎年十月十七日に行われる 伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)の当日、午前十時を期していっせいに各在所において 「神宮を遥拝(遠くから拝む事)せしむる様」に信徒に徹底するよう通達しています。 また、同年十一月十九日には、日蓮正宗・報国団が結成され、総裁には日恭が就任しました。 そして、宗務院に本部が置かれ、全僧侶・信徒が団員とされ、 日恭の指南のもと、戦争に協力し、献金を行うなどの事業を行っていきました。 そんな中、創価教育学会は同年十一月に第五回総会を行っています。 「第五回総会報告」に掲載された牧口先生の総会講演では、 法華経の「信者」と「行者」と「学者」の研究に対して論及しています。 そこには、日蓮正宗の御本尊を信じて題目を唱えるけれども、 他人に仏法を教えるという菩薩行をしない者のことを「信者」といい、 菩薩行をする者を「行者」であると区別しています。 それが次の文です。 「われわれ正法信者の仲間にもなお、信者と行者と学者との区別があり ・・・・信者と行者と区別しなければならない。 信ずるだけでもお願いをすればご利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。 自分ばかりご利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はいないはずである。 菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。 すなわち、親心になって他人に施すのが、真の信者であり、且つ行者である」 (同一五〇頁~一頁)――と。 そして、菩薩行をする者には経文の予言通り「三障四魔」という迫害が生ずることを述べます。 「さて、そうすると必ず魔が競ひ起るのであって、日蓮大聖人は 『この法門を申すには必ず魔出来すべし。 魔競はずば正法と知るべからず』と仰せられ、又摩訶止観の『第五に曰く、 行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起る。 乃至随ふべからず、畏るべからず。之に随へば人をして悪道に向はしむ。之を畏るれば正法を修することを妨ぐ等云々。 此釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡也。謹みて習ひ伝へて未来の資糧とせよ』と仰せられたのはこれである」(同一五一頁)――と。 Tweet