2017年3月13日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月13日(月)09時33分26秒 通報 一度、整理します。 法華経の方便品第二で「十如是」という法理が説かれ、 さらにこの方便品から人記品第九の間に「十界互具」が説かれます。 そして寿量品第十六にいたって「三世間」が明らかになり、最後の 〝国土世間が説かれて完結〟するという、多次元の議論が「一念三千の法門」です。 そして、自らの悟りのうえから一念三千を体系化し、 理論付けたのが天台(理の一念三千)です。 しかしいくら「一念三千の法理がある」と言われても〝それだけのこと〟であり、 観念論の域はでません。 そこで大聖人が第三の法門を打ち立て〝事の一念三千〟の当体たる 南無妙法蓮華経を一幅の漫荼羅として図顕し、根本法の当体とされました。 漫荼羅とは〝功徳聚〟とも表現され、人が根本として 尊敬する当体で、それを「本尊」と名づけます。 要するに、私たち(生命)の一念は変化、変化の連続です。 しかし、この御本尊に「南無妙法蓮華経」を唱える一念となった時、 はじめて〝仏界〟という尊極の生命がわが一念に始動します。 そこにのみ〝全生命・全英知を凝結した人間の最大価値の行動がある〟ということなのです。 Tweet