投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 3月 8日(水)03時40分15秒   通報
桜の城 P62 (昭和54年5月3日)

獅子となりて我は一人征く
一九九九年五月一日

しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさ
え、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。

体育館を出た直後、渡り廊下をを歩いている私のもとに駆け寄って来られた、健
気な婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

会合が終わり、特別の控室いた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンと
した態度であった。

これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の声明に厳存する閻魔
法王に、断罪されることは絶対間違いないだろう。
仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。

私は思った。

ー宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと
思い上がったにちがいない。
彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし!これで
完全勝利だ」と計算し、胸を張っているだろう。

その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。

私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。
この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。

いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。
学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。
柔和な忍辱の衣を着るべきである。

一方、学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを、道具
にし、利用し、破壊しているのである。

これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。
あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。
本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。それが、坊主の奴隷になり、

権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。
私は、重荷を・また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅に帰らず、神
奈川文化会館に走った。