2017年1月24日 投稿者:飛翔こそ蘇生 投稿日:2017年 1月24日(火)11時45分17秒 個人的生命感覚からの 思考概念への転換です。 仏・生命・宇宙生命の関係性が一念三千です。 (言葉自体は固定的ではない) (その都度の救済の思いが響くだけです) 一念とは瞬間であり今ここに気づいている意識です。 仏法では一念は瞬間ということなのです。 瞬間の「私がある」という観察者としての認識は その実態は「無・空」です。 なぜならば観察されて初めて 存在していると確認されるのであり (量子力学的な事実) 確認できるのは 三千と現れる諸法・十法界・世間 の方、大きく言えば宇宙です。 その全ては確認された過去です。 今この瞬間、一念の「私」気づいている意識だけが 今を経験しており 経験している私ということを確認した時点では すでに過去になり三千の方になりますので (私は衆生世間、経験の仕組みは五陰世間 経験をもたらせた環境は国土世間) 一念と三千の関係性の中でしか 瞬間の気づいている「私」は存在していません。 逆に三千の方も 気づかれて観察されて初めて存在します。 観察されるまでは全ての可能性の 非決定的な同時存在としてあるだけです。 (量子力学的な事実) 過去に経験された在り方は すでに今の在り方の中には無く 未来に経験される在り方は いまだ今の在り方の中には無い。 常に経験しているのは 「今この在り方」だけです。 気づいている意識が向けられることにより ありのままに現れているのです。 (全ては自身の生命現象ということです) 今この瞬間という経験の連続は まさに波のごとしです。 静止画を見せて「これが波です」 と言っても、それは実際には波ではないです。 留まることが無いのが波です。 気づいている私という現象の連続です。 妙法蓮華経という自身が 十界の本有の尊形に気づくのです。 十界が十界のまま慈悲なのです。 感謝感謝・歓喜歓喜です。 しかし、こんなことは 無理矢理に頭で思い込んでも そんなのは全然その在り方の体感に到達していないのです。 考えに執着することは 今ここのありのままの尊形ではないからです。 御本尊に表現された一念三千の在り方を信じ (書かれている文字への執着ではなく現象の在り方) 無疑日信(あれこれ難しく考えない)の (執着を離れるのであり 妄信に猛進して概念でガチガチになるのは真逆) ただ一心に仏を求める心で唱題する時に 生命の奥底から無尽に湧き起こる。 (地涌の菩薩は、大地の下方の真理の世界から湧現した菩薩であると法華経に説かれます) 体感の生命現象です。 生命現象として 未だ散っていない霊山一会はあるのです。 大御本尊があったから創価学会があって 池田先生が現れて我々は信心に巡り合った。 この信心をどう開花させるか? 思考概念の上書きではなく 体感し行動し語るのです。 一人も漏らさず幸福に! Tweet