投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月21日(土)20時35分47秒   通報

師匠の思い

17年前の1984年3月10日、池田先生がサンディエゴで、将来、
アメリカに大学をつくる構想を話された。
その時「私の時代に完成しない場合には、私の意志を継いで、
何十年かかろうともその実現をお願いしたい」と話された。
以来、17年。
先生の執念の戦いで、2001年5月3日という最高の時に開学となり夢が実現した。

★アメリカ創価大学の構想は、創価大学のロス分校からスタートした。
それは、アメリカ社会の凄まじい妨害に直面し、必死の応戦の戦いとなった。
1990年2月、カリフォルニアの州議会は公園局を中心に、「ロス分校のキャン
パスは公園に適している」として、その土地を強制的に買収しようとしてきた。
マスコミも「SUAは危険なカルト集団である。カルトは迫い出せ」と激しく書
き立てた。

その凄まじい攻撃の中で、池田先生は「法に違反してなければ戦うのだ。たと
えアメリカの国家権力であったとしても戦うのだ。戦って、戦って、戦い抜い
て、もう駄目だ!となったら私が君らを守る。安心して戦いなさい」と励まし
てくださった。先生のその執念の熱い真心があったから、10時間唱題に何十回
も挑んで戦い続けることができた。

正義の言論戦

★アメリカ社会がなぜそこまでSUAの障害になったのか。
①ジャパン・バッシングの環境が根強くある。
②キリスト教社会では仏教そのものをカルトと思っている面がある。
③環境保護主義の思想が強い、といった点があげられよう。

★主な妨害を列記すると
①ロサンゼルス・タイムズをはじめ、マスコミによる批判攻撃は4年間で
 600回に及んだ。そのすべてに徹底して反論した。反論しないと事実を
 認めたことになるから。その結果、4年後に、ロサンゼルス・タイムズ
 の編集長が「今までSUAをカルトと言ってきたが訂正する」と謝罪に来た。
②ABCテレビが、「SUAはカルトかスクールか」と、夕刻に5日連続で批判特集
 を放映した。徹底して反論した。
③カリフォルニア州議会で、地元出身議員がSUAの土地を強制買収するための
 予算法案を1030回も提出し続けた。議会にロビーストを送って、徹底して
 反論した。
④州税務局が脱税容疑をかけて2年間にわたリ調査の手を入れた。脱税の事実
 が出るはずもなかった。
⑤ロス市議会で「SUAがユニバーシティーは大学院があってこその総合大学
 であり、大学院のないSUAはユニバーシティーを使うべきでない」と決議し
 た。 それならと、SUAに大学院を併設して事なきを得た。
⑥郡議会で、SUAの強制買収を決議案が議決され、公園局が裁判所に手続きを
 開始した。こちらも裁判所に法的に訴えた。1審勝訴。2審敗訴。ここで公園
 局が和解を申し出てきたことも不思議だった。

*一歩も退くことなくここまで戦えたのは、先生の熱い激励と、いつかはどこ
かで解決しなければ、アメリカ社会の誤解はとけないとの認識から、自分たち
が突破口を開くとの使命感をもって戦ったから。

友情を結ぶ積極的な応戦へ

①SUAの地元地域の人々をキャンパスに招いて、一人一人に説明した。
②小単位のコミュニティー・ミーティングを開いて、池田先生の思想を、仏法用
 語を使わずに語り続けた。
※アメリカ人は納得すると意識を変える傾向がある。
SUAに反対だった人々が正しい認識に立って、SUAを守る会「フレンズ・オブ・
SOKA」が結成され、今では地域住民500人が所属している。

★さらに、守るだけではなく、積極的な応援を受ける教育体制を作ろうと考えた。
日本人から見てではなく、アメリカ人から見て、信頼される教育を、ロサンゼル
スの環境の中でどのようにと知恵を絞った。その結果

①キング牧師亡き今、黒人中心のマイノリティーに最も信頼の厚い“人権の母”
 ローザ・パークスさんをキャンパスに迎え、池田先生との会見が実現した。
(命を賭した人権の闘士同士の出会いと、響き合う魂は既報の通り)
②アメリカの人口の4%を占め、各界に大きなカを持つユダヤ人が、SUA反対の
 中心者に多かったが、池田先生のサイモン・ウィーゼンタール・センター
 訪問を実現。教師のラビであるクーパー副所長やバリツァー博士とも会談。
(訪問した際、先生は『感動』いたしました。いな、それ以上に、非道の歴史に
『激怒』しました。
 いな、それ以上に、未来への深い『決意』をいたしました)と感動的なあいさ
 つを「アンネ・フランクとホロコースト展」を巡回展として実現させた。
③アメリカではお金持ちが一つのステータスになっているが、大金持ちの子弟た
 ちが学ぶクレアモント・マッケナ大学へ池田先生の訪問と記念講演を実現。
 天文学者のジャストロー博士との会談でウイルソン山天文台と関西創価学園
 との衛星中継も実現した。
 (甲子園の関西創価の紹介映像にもこの画面が入っている)

このような真剣勝負の日々のなかで、日本の大学としては初めての大学院の認可
が下り、SUAが開学した。

オレンジ郡キャンパスヘ急展開

★こうした戦いの真っ直中で、ある日、SUAに一本の電話が。大手たばこ会社の
フィリップ・モーリス社の社長室からだった。「SUAが批判と戦っていることはよ
く理解できる。わが社もかつては批判されてきた。SUAのロス・キャンパスの立地
条件は美しく素晴らしいが、わが社は、オレンジ郡にもっと素晴らしい土地を持っ
ている。そこならば、住民に反対はなく、連邦の郡市も住民も歓迎してくれる。
この地に来ないか」と土地の購入を持ちかけてきたのだった。
「断るとしても、一度見てからでもいいでしょう」と言われ、見に行ってみた。
そして驚いた。高級住宅地の高台にあり、三方は谷、その向こうに太平洋が広が
り、一年中、湿気も雨もない温暖の地。すべての教育環が整っている絶好の立地
条件であった。諸天善神の働きとはこういうことなのかと思った。オレンジ郡キャ
ンパスが決定した。

勝利、そして未来へ

★1996年3月16目、「3・16」の佳節に、ロサンゼルス・タイムズは1面に
池田先生を評価する内容の、池田先生へのインタビューを掲載した。
そして、同じ紙面の社説に「SUAをアメリカ社会に受け入れる公式見解」を載せた
。これで長い戦いに勝ったと思った。

アメリカ創価大学は21世紀の世界の指導者を輩出する大学である。
第1期は、120人でスタートする。
30年前に開学した創価大学は世界中で卒業生が活躍している。
先生は『将来は日本が分校で、アメリカが本校になるよ」ともおっしゃった。
そしてこのようなお歌を詠んでくださった。

「アメリカの わが創大はわが命 秀才逸材無限に育てよ」