投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年12月19日(月)11時39分48秒   通報
大城様
>創価学会はどこよりも下から変えるのが難しい組織
そして、若き日からそこに挑戦してきたのが池田先生

そう思うとまだまだ諦める訳にはいかないと思います

こんな状況ですが、ジョーカー様はどう思われていますか?<
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水滸伝の中に「死域」という言葉があります。これは、本来自分が限界を感じているものというのは、本当の限界よりも相当手前であり、もう無理というところからがはじまり。限界を超え、死ぬか生きるかという苦しみの先に死域という領域がある。苦しみに徹し抜き、到達した死域にこそ、本当の自由がある。この領域に到達できるかどうかが、人間としての深みと強さに関わってきます。

戦うということと、限界(無力感)を感じることはセットです。どんなに対話をしても、一度や二度で人の心は変わり難しです。変わらない現実に無力感を感じ、絶望した先に、死域に達する道があります。そして、誰が味方になろうとならなかろうと、本質的にはどうでもいいことです。結局のところ、味方や理解者がどれだけ増えようとも、自分がやるしかないからです。広宣流布も権威主義と戦うことも、「自分がやる」ではまだ弱く、「自分がやるしかない」と決めることです。

日蓮大聖人は、誰も頼ることなく一人立ち、国家を三度諌暁された。現実的には、それで変わったかというと変わらなかった。大聖人はそれをわかっていながら諌暁されたことに意味があります。結果がどうかではなく、どう生きるかが仏法。味方がいなかろうと、権威主義と戦う生き方を貫く。それが未来への伏線となり、意志を継ぐ人間があらわれる。大聖人の諌暁の精神は、創価三代が受け継ぎ、また本門の池田門下も継承している。継承といってもそれは、「自分がやるしかない」と、決めた人間だけが受け継げるものなのです。

選択肢はなく、自分がやるしかないのです。その一念に、日本、世界にちらばっている創価の英雄たちが呼応し、立ち上がる。権威主義と戦う、一見無駄な一歩一歩が、事態を変えることとなる。無力感、絶望感こそが戦いの真骨頂であり、その時は、「ますます勇気が湧いてきます」とつぶやく。また、絶望してあきらめの心が湧いて来たとき、「だが断る」とニヤッと笑う。何があろうとゲラゲラ笑い、絶望を吹き飛ばすのが仏法です。

仏法は因果?時ですから、自分がやるしかないと決めた瞬間、もう勝利しているのです。要はその一念に行き着けるかどうかです。無力感を打ち破り、何があろうとなかろうと自分がやる。限界を超え、全身全霊やれることをやる。その生き方の中に、日蓮大聖人の魂もあるのです。