投稿者:小作人@地上の発心 投稿日:2016年12月 6日(火)22時12分45秒   通報
三人とその仲間たちに一定の敬意を払い、共感を抱いても、別に彼らに何かを託し期待しようとは思わない。
外国人記者相手に何を語ろうが、それで事態が進展するとは端から思っていない。

目指すものは同じでも、目的を多々共有すれども、彼らは彼らの戦い。私は私の戦い。
彼らが仮に法廷闘争に敗れようが、この先どうなろうが、ぶっちゃけ知らんこった。

「和して同ぜず」ーー。このスタンスを取れない人が結構多いものだ。

「共闘」の範疇を越えて相手に「容喙」(くちばしを入れる)そして「干渉」の域にまで踏み込んでいる自覚のない人がいる。
そうかと思うと、
「善の連帯」の美名の下、のべつまくなし「会いましょう」としつこく呼び掛けるような礼儀知らずに妙な理解を示す人もいる。
ここに顔を出すことなく冷静に投稿を読み解くロム専の方の目にはどう映るかを思慮できていない。

他人の姿に自分の姿を重ね、他人の言葉の中に自分の言葉を探そうとするからこうなる。

ネットの中でも外でも同じこと。
誰かが用意した規律や規範の中でしか自己を確認できないからだ。
「創価学会仏」だなんて言われて真に受けるような素地が学会員一同もとからあったのではないか?

三人の意図や証人申請の可否と是非を当て推量している場合ではない。
他人の行動を詮索し論評する暇があったら、今いる場所で今できることをする。
己自身に生きよ! 己自身の使命を全うせよ!

全学会員に今問われていることは「あなたの池田大作は今どこにいる?」この一点だ。

「一人立つ」が「おひとりさま」で閉じて終わる人と、そうでない人を分かつ、今この時が剣が峰なのだ。