投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月19日(土)07時02分49秒   通報
私たちは元気なときや調子のいい時には何でも
できますが、反対に大変なとき、逆境の時に勇気を
奮い起こして、戦いを起こすというのは大変な
ことだと思います。

実はこの大変なとき、逆境の時の、心構え、一念の
定めどころと言いますか、行動によって、その後の戦い、
人生が大きく異なってくるというふうなことは、
よく伺います。

池田先生の大変な時期は、様々あったと思いますが、
なかでも一番大変な時は、昭和54年の第一次
宗門問題のときではなかったかと思います。

このときは、宗門からはすべての悪は『池田大作』
であると言われ、会合に出てはいけない。
指導してはいけない。
聖教新聞に出てはいけない。
聖教新聞に指導を載せてはいけない。
あげくの果ては、なぜ学会本部にいるんだ。
学会本部で指揮を執ってはいけないんだと
攻撃をされました。

そうしたときに先生は、指導をしてはいけないならば、
創価学会の功労者のお宅を訪問し、激励していこう。
そうして一軒一軒、家庭訪問をして、次の広宣流布の
盤石な流れを切り開き、新たな創価の歴史を築いて
いこうと、大変な決意をされ行動を開始されました。

そして、神奈川文化会館とか立川文化会館とか創価大学
とか神奈川研修道場とか北海道研修道場などを拠点にされて、
それこそ一軒一軒、家庭訪問、個人指導をおこなって
いかれました。

そうした指導のおりでの、北海道別海(べつかい)の福住
(ふくずみ)というおソバやさんのお話しを伺いました。
この、別海町は聖教新聞の地域占有率が30%もあるそう
なんですね。
それでなぜこんなにすごい戦いができるんですかと、
聞いたところ、実は、やはり昭和54年ごろに先生に、来て
いただいたときに、個人指導、家庭訪問を本当によくやって
いただいたんです。というお話でした。

そして、実は、この時に地元の幹部の方は、福住(ふくずみ)
というおそばやさんのことは、先生にご報告をされなかった
ようなんですね。どうしてかと尋ねましたら、実は、その家の
お名前は『福が住むと書いて福住』というんだそうですが
その福住のお母さんは、テンプラ油を頭からかぶって、
大変悲惨な死に方をされたんだそうです。

そしてそれを契機に、ご家族が退転をされてしまう。
ご長男は男子部で隊長までされておったそうですが、やはり
退転をしてしまう。そんな状況でしたから、先生に訪問して
いただくのは大変申し訳ないということで、ご報告を
されなかったそうなんです。

しかし、先生はどこから聞き付けたのか、いってあげよう、
と一言おっしゃられたそうなんです。

福住の店の前で先生は、『池田です』とあいさつをされる。
さすがに、隊長さんまでされておられた方ですから、すぐに
池田先生と解られたようで、『ま、どうぞ』ということで
中に入られた。

先生は、その店のご夫妻に激励をされ、お話しをされます。
そのお話しの内容というのは。
『母親が事故でなくなったとか、病気でなくなったとか、
どんな死に方をしたかというのは、そんな大きな問題では
ありませんよ。

大事なことはどういうふうにお母さんが生きたのかという
ことが大事なんですよ』と話をされて。

あなたのお母さんは別海(べつかい)地区の人達をみんな折伏したんです。
あなたのお母さんのおかげでみんな幸せになったんです。
あなたのお母さんのおかげで北海道研修道場の土地もこうして購入できたんです。
あなたのお母さんは別海広布の大功労者じゃありませんか。
すばらしい人生を生きたお母さんなんですよ。とお母さんを最大に
賛嘆をされて、ご夫妻を激励をされたんだそうです。

先生のじゅんじゅんと諭すような、真心からの暖かい励ましに、
ご主人もだんだんと心を開いて、いろんなお話をされるように
なったんだそうです。

そうした時に先生が、ところでここはおそばやさんですが
おそばはできますかと伺ったそうです。
『もちろんできます』ということで、しばらくあってザルソバが出てきた。

先生は一口食べられて、『まずい』とおっしゃったそうなんですね。
ここで『うまい』といえば話がうまくまとまるんですが、まずいと
おっしゃって、ところでそばの命はタレなんですよ。

このタレはお母さんのタレなんですかと、となりに立っていたお嫁さんに
聞いたんだそうです。そうしたらそのお嫁さんが、そうなんです。
いっくら言ってもうちの主人が言うことを聞かないんです。
このタレは主人のタレなんです。と言われたそうなんですね。

そんな話でしたから、お店のほうは大丈夫なんだろうかということで、
ところでお店のほうはどうなんですかと聞いたところ、案の定、
もうしばらくお客もぱったりで、今日で閉めよう明日はたたもうと
悩む毎日です、と話したそうなんですね。

それでは明日、お母さんのたれでおそばを作って、会館に持ってきて
くれませんかということで、翌日会館におそばが届けられた。
先生は、少しよくなったけどやっぱりまずいな、と。

ところでソバ粉はお母さんのソバ粉なんですかと聞いたところ、
やはりお嫁さんが、我が意を得たりとばっかりに『そうなんです。
主人のソバ粉なんです。』といったそうなんです。

先生は、それではもう一度、お母さんのタレとお母さんのソバ粉で
食べさせてください。と言って、またおそばが届けられたそうです。
先生はまわりの人たちにも勧められ、とってもおいしいとにっこり
笑って、大変な激励をされて帰されたそうです。

この激励を受けた、ご夫妻が再び信心に目覚めて、決意をされ、
頑張った。いまでは、札幌を中心にフランチャイズ展開して
複数の店を経営されているそうです。

昭和54年、宗門問題で最悪のときに先生は、ご自身のことは
一切問題とされずに、大変ななかを、一軒一軒家庭訪問をされながら、
一人一人に懇切ていねいに手間暇かけて指導をしていらっしゃる。

この先生の戦いに、その後の広宣流布の展開が、大きく、盤石になって
いったと同時に、広宣流布の流れの原点の戦いでもあったろうと思います。
そういった意味では、やはりこの一年、戦いの原点である、個人指導、
家庭訪問を繰り返しながら、多くの対話の花を咲かせ、
着実に実らせていきたい。

それぞれ大変ななかを、逆境こそチャンスである。逆境こそ最高の
宿命転換のときととらえ勇気を奮い起こして頑張ってまいりたい。

『魔競わずば正法と知るべからず』
『魔来たるを安楽と心得べきなり』
『大悪起これば大善きたる』

》記事一覧表示