投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年11月16日(水)23時53分58秒   通報
光輝様

大聖人の側近であった五老僧は、大聖人の精神を継承することはできなかった。それとは裏腹に、熱原の農民信徒は、死身弘法を貫き、大聖人の精神を継承するに至った。この違いは一体何なのか。信心歴も実践も農民信徒たちとは天地雲泥の差があるはずの五老僧。普通に考えたら、大聖人の精神を継承し、人々の模範となるべき立場の人間のはずである。学会で言うならば、最高幹部が狂い、現場の一会員が、学会精神を継承していることとなる。

何故このようなことになるのか。人というのは、力があればあるほど増長し、勘違いを起こす%があがる。提婆達多も力のある人材だった。学会では、幹部になればなるほど魔(増長)が強くなる。本来、逆ピラミッドの組織であるはずなのに、ピラミッドと勘違いし、狂っていく。役職があがるということは、それだけ多くの会員に尽くすということであり、偉くもなんともない。それを偉くさせてしまうところに間違いが生じる。

戸田先生  人間革命12巻より
「幹部のために会員があるのではない。会員のために幹部があるのだ。はき違えるな」

このような指導は、学会員ならポピュラーに知っているが、頭でわかることと、実践では違う。学会員の組織内での戦いは、「幹部を絶対に偉くさせない」ということである。幹部が偉くなってしまったら、そこから崩れていく。知らず知らずに増長した幹部は、会員を軽く考え甘く見る。そうなってはいけないからこそ、幹部に厳しい指導が沢山残されている。

民衆(会員)を第一に考えるのか、それとも体制側(幹部)を第一に考えるのか。根底がどちらにあるかで、その人物の人間性がわかる。なにがあろうと、まずは民衆(会員)の心を大切にするのが信用できる人。反対に、心を汲み取らず、体制擁護の人間は信用できない。たとえルール違反があったとしても、「なぜそれをしようとしたのか」と、心に寄り添うのが人間主義で、どんな理由があろうとも、ルール違反だからダメと、切り捨てるのが官僚主義である。

体制側は、権力を有しているからこそ、真摯に話を聴く義務がある。話を聴かないこと自体が罪であり、悪であることを自覚すべきである。そうでなければ、会員を苦しめることになるからだ。そしてそれができてこそ組織は健全化し、発展させることができる。またそれが、三代会長の一貫した指導でもある。学会活動の要は、会員を仏の如く敬うことであり、すべての諸問題は、この逆の、会員を軽んじるところから生じる。一方的で、納得性のない雑な説明や打ち出し等は、会員を軽んじているから為せる業。そこに怒りを感じるのは、至極当然でありましょう。

ともあれリーダーならば、「冷酷」、「無慈悲」、「心がない」等、思われただけで敗北である。たとえ誤解であったとしても、そのように思わせる何かがあるということだ。人の振る舞いこそが仏法であるならば、会員のやる気を削ぎ、士気を下げることはマイナスだ。会員奉仕のはずが、会員の上にふんぞり返り、偉そうにする人間が出てきたら、叱り飛ばすのが普通です。この当たり前のことが出来なくなることを転倒といい、末法の特徴なのです。