2016年11月15日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月15日(火)19時43分55秒 通報 本当にもう貧乏で、貧乏で、貧乏のどん底で3度の食事もどうなるかという生活をしておりました私が、このような境涯にさせて頂くなんて夢のようでございます。 昭和37年、26歳の時に入信しました。 私の家は、7人兄弟で、父が働かない性分で恵まれない家でした。 こんな人生をおくんのはイヤや、はよ大きくなってお嫁にいきたい。 結婚したら幸せになれる、と思って頑張ってまいりました。 縁ありまして尼崎へ昭和33年、23歳で嫁いで参りました。 でも結婚したものの、青春時代よりも、もっともっと悪いところへ嫁いだのです。 こんなはずやなかったのに、半分あきらめて毎日毎日泣いておりました。 結婚生活は、3畳と4畳半に義父と義母と主人の弟と5人で住んでいました。 私の主人もまた、働くことが嫌いでした。 ほんとにこれを宿命と申すのでしょう。 そういう時に「この法華経を信じる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」ということを近所の方から教えていただきました。 でも、私は、「その信心は絶対ウソや」と思っておりました。 といいますのは、若いときから不幸だったもんですから、生長の家、天理教、金光教、キリスト教、もう何でも手を合わすものなどどこでもいい、と思っておりました。 なんぼ信仰しても頑張っても、幸せになることはできなかったんです。 それで、この学会の話を聞いた時も、「またウソや。また、だましに来たわ。」と思っておりました。 でも、毎日毎日来るんです。 義父が水をまいて、母は塩をまいて、私も学会の人が忘れられないような悪口を言って、追い返しておりました。 それでも、なんかある度に来られるんです。 こんだけ悪口を言っても、そのおばちゃんは家に来られて、「○○さん、幸せになりいや。がんばろうな。」と言われて、「なんでこんな私のためにしてくれるんやろか。運命なんか。」と思っておりました。 それで最後には、 「よし、もう1回だけ、だまされてあげよう。」 「この宗教をしてみよう」っていう気持ちになりました。 それが昭和37年3月でした。 うちの母が、「あんた信仰すんねんやったら、もう離婚やで。外へ出て行って。」と言い始めたんです。 それで一生懸命、内得信仰致しまして、主人にアパートを借りてもらって御本尊様をご安置できました。 入信と同時に私が一日一日と明るくなって義父や義母や皆が認めてくれるようになりました。 義母は「この信仰してから、ちょっとあんた変わったで」と言ってくれるようになりまして、お花を買ってきたり、お供え物を買ってきてくれたりして、色々と協力して下さいました。 昭和38年になりまして、3人目の子供がおなかに入りました。 義母に「いつまでも別居しててもあかんから、家に帰っておいで」と言われ、3畳と4畳半の八軒長屋だったんですけれども、そこに戻って来ることになりました。 そうしますと、八軒長屋に住む方が「あそこの嫁さん、創価学会に入ったらしいで。家がようなってきてんやで。まあ見たろか。」と言うて、皆さん大きなおなかを見に来られたんですね。 「冷蔵庫も買うたらしいで、扇風機もあるで、洗濯機もあるで。」って言うて、そんなんだったんですね。 昭和38年頃は、「あそこ、お金ないから貸してって、借金を頼みに来た人やで。」と、いうことで、八軒長屋の方々から次から次へと入信されました。 昭和40年、義母は、赤ちゃんが眠るような綺麗な姿で亡くなりました。 義母が、生前「私は昼寝をしたまま死にたい」と言うてましたけど、ほんとにその通りの姿でした。 そんな義母の姿を見て「この信仰は間違いない。今までようけ葬式を見てきたけど、こんな綺麗な姿で亡くなっている人は見たことがない。わしも創価学会に入るわ。」と義父が言ったのです。 そして、学会の人に塩をまき、水をまいていた義父が、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えたんです。 すると義母がフニャフニャに綺麗にやわらかい姿になって、そら、義父はほんとに喜んで、喜んで。 義父もその当時は学会は香典を持っていくという、心ないデマを信用していたんですけれども、「それはウソだった。香典を持っていくどころか、その香典によって立派なお葬式をさせて頂いた。また、学会員さんが一生懸命に親切なお姿で、お世話して下さる。」と言って、「もう絶対、間違いない」と喜んで、入信しました。 私もこうして皆さんに助けられて、だんだんと境涯も良くなってきまして、家を買うてもらえるようになりました。 80人から90人くらい入れるような座談会のできる家が欲しい、と願っていましたところ、そういう家が見つかりまして、その家を買いました。 やっと3畳と4畳半の2階の長屋から、出ることができました。 それから昭和45年の春でした。 次男坊が夜中に、「おかあちゃん、あんよが痛い。なんみょうして、なんみょうして。」って言うんです。 私は一生懸命、お題目をずっと朝まであげて、その子を病院に連れてまいりました。 そうしますと、骨随炎という病気でした。 足の骨が腐ってくるというもので、そこにばい菌がたまって、それがあっちゃこちゃに移転すると、死にいたるという重い病気だったんですね。 先生が、「即、入院。即、手術やで。手続きして帰り。」と言われました。 その時、御書のなかの「南無妙法蓮華経は獅子吼のごとし、いかなる病さはりをなすべきや」という御文が浮かびました。 「そうや!今は祈るだけや!一生懸命祈っていこう!そしてそして手術しよう!」と思いまして何十万遍というお題目をあげきって、1週間が経ちました。 そして、その子を病院に連れて参りました。 そうすると、病院の先生が前に撮ったレントゲンとその当日撮ったレントゲンを並べまして、「ああ!前の影がないで!松本さん治っているやん。」と言われたんですね。 「どうしたんや、他の病院へ行ったんとちゃうか。何か薬飲んだんとちゃうか。」と言われました。 実は、この1週間、子供は「おかあちゃん、バンツ冷たい、パンツ冷たい。」と言いますので、パンツを見ますと、中に寒天のようなドロッとしたうどんのようなものがずっと降りていたんです。 それで、「先生、この子のパンツに、こんなひろっとしたものが降りていたんです。」と言いました。 すると先生は「これやんか!これが癌やんか!」って言われ、「治ってんでえ、もう薬いらん。あすから病院来んでええ」と言われました。 「いやぁ、すごいなあって。この“治しきってみせる”という一念が御本尊様に通じたんやなあ」って思っていました。 実は、その子供が、テレビで見て頂いている、「ダウンタウンのまっちゃん」なんです。 皆様の、お茶の間にいつもおじゃまさせて頂いております。 人志は、幼稚園の頃から、吉本興業に入りますまで、五座三座の勤行を1回も欠かしたことがございません。 そして小学校のころは、よく寝坊しましたけど、1時間、学校に遅れて行っても、勤行だけはしていくという勤行大好きな子供だったんです。 人志が吉本興業に入りまして、御本尊様に私はお祈りしたんです。 「どうせ、タレントになるなら、関西一のタレントにさせて下さい。」って、気持ちよく、御本尊様にお祈りしておりました。 今では、ファンの皆様のお陰をもちまして、全国ネットで活躍させて頂いております。 本当にありがとうございます。 ここで皆様にお願いがございます。 全然、面白くなくても、ダウンタウンの番組があります時は、ちょっと、こうチャンネルを合わせて頂けたらうれしいです。 2年ほど前、人志が、「おかん、マンションの生活してみい、ええでえ。」と言って、マンションを買ってくれました。 今は、そこに住んでおります。 話は戻りますが人志がおなかにおりました時に、私は御本尊様に「もう一人男の子を下さい。 松本家になくてはならない子供を下さい。賢い子で、可愛い子を下さい。」としっかり祈っていました。 ところが彼は逆子でした。 十月十日(とつきとうか)間、題目をあげても、逆子が治らなかったんです。 私は、逆子でもいい、元気で無事に生まれてきてほしい、と御本尊様に祈って参りました。 出産の日、陣痛が始まると、彼は賢い子ですよ。 すうっと頭を下にもってきて、ちょうどうまいこと無事に頭から出てきたんです。 私、勉強のことは、あまりうるさく言わなかったんです。 とにかく、あの子が0点をとってこようが、20点をとってこようが、、「えらい!」って言って、「あんたはやったら出来る。やったら出来る。」って、3人の子供、みんなにそうしました。 落ち込んだら、「あかんでぇ、おかあちゃん見てみい!踊ったろか?」って言いましてね。 女性は家庭で明るく朗らかにしていると、子供も明るく変わってきますし、ご主人も暗い奥さんといることは、あんまり好きじゃないんやないかなと思います。 私も60歳を越えましたが、これからも、もっともっと輝いていきたいと思います。 この信心をしていけば、輝いていける。勇気が出る。知恵が出る。すごい御本尊様です。 そして、池田先生が「口では平和を論じ、幸福を論じることは容易である。けれども、現実に自分の幸福を打ち立てながら、社会も国も人類も、幸福にしている団体は、我が創価学会意外にない。断じてない。」といつもおっしゃっておられますが、本当に人の幸せを祈り、ともに闘い、ともに涙して喜んでいけるのが、この創価学会以外にないんですから。 私もいい信心をさせていただいいたなぁ。いい同志をいただいたなぁ。いい一生をいただいたなぁ。といつも感謝しております。 あんなに貧しく、3度のご飯も食べられなかった私でも、こうして御本尊様に守られて、こーんな幸せになったんです。 今では、人志が毎月毎月、小遣いをくれるんですよ。 「おかん、小遣いやろう。お金つかいや。お金つかいや。」って。 地震の時は、電話をかけてくれまして、「何かあったんちゃうか、俺、助けたるで。何でも言いや。」言うて、優しいんですよ。ほんとうに。 実は私、今日この会合に参加して、幹部の方々のお話しやら、皆さんのお歌を聞いたら、涙が出て、涙が出て、ちょっと、お化粧がはげるかなぁ。それでも、涙が沢山出てくるんです。 こうして皆さんとお会いできたことが嬉しくて嬉しくて仕方がございません。 これからも皆様と、共々に頑張っていきたいと思います。 Tweet