投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月14日(月)20時33分33秒   通報
人気タレント・辺見えみりの父親でもある西郷輝彦(50歳)は、33年前の昭和39年、17才の時にデビュー。
現在は舞台・テレビ等で存在感のある俳優として、また脚本も手がけるなど幅広い活躍をしている。

そんな西郷が「一度、池田先生にお会いしたいな」と、しきりに芸能関係の学会員に語っていた。

そんなことから昨年(平成8年)聖教新聞の「日曜てい談」の取材が実現。

本年(平成9年1月5日付の新聞に掲載された。)

その陰には、次のようなエピソードがあった。
西郷は、故・田中角栄に可愛がられていた。

郷里の鹿児島に母親を残したまま、西郷は高校を中退して一人上京、歌手を志して苦闘の青春時代を送った。

一方、田中角栄も郷里の新潟に老いた母を残し、高等小学校卒ながら政界のトップ登りつめた苦労人。

それだけに田中角栄は西郷の気持ちをよく知り、何かと西郷を応援、西郷も田中角栄を慕っていた。

昭和45年頃、ある時西郷が角栄に尋ねた「田中先生はどんな人を尊敬しているんですか?」と。

すると角栄は間髪を入れずに「実はな、創価学会の池田会長だよ」と答えた。

西郷は一瞬驚いた。

創価学会の池田会長といえば、当時「言論問題」でマスコミの集中砲火を浴びいていたからだ。

そんな人を「なぜだろう?」と思った。

角栄はしみじみと語った。

「見てみろ。政界じゃ東大出の政治家が40人50人の派閥をまとめるのに大騒ぎしているじゃないか。それに比べて池田会長は苦労しながら今日の学会を作り上げ、実際に何百万人という人々を幸せの方向へ導いている。こんな偉大な人はいないよ。だからワシは池田会長を尊敬しているんだ」

この話を聞いたときから、西郷は創価学会と池田先生に興味を持ち始めていた。

そして、先生の著作を読み始めるうちに、ますます先生の偉大さに心惹かれるようになっていった。

小説「人間革命」も読んだ。

また 映画「人間革命」も見た。

ある時、山本伸一役を演じたあおい輝彦に会った。

同じ名前の「輝彦」仲間の先輩ということもあった、西郷は遠慮なくこう言った。

「人間革命の映画を見たけど、おまえの山本伸一は全然なっていない。お前は池田先生の心がわかっていないんじゃないのか。先生の本も読んでいないだろう。お前じゃダメだ。山本伸一をやれるのは俺だよ」と。

ところで、西郷は森繁久弥の数少ない直弟子の一人。

竹脇無我も直弟子だが、現在病気療養中とあって、スポットは西郷に。

まさにこれからが役者としての正念場といえる。

そんなことから、西郷は自分の生き方などについて何とか池田先生に指導を受けられないものかと思っていた。

ある時、仕事を通じて親しくなっていた舞台演出家の布施谷貞雄さん(芸術部員)が学会員とわかったので、西郷はさっそく布施谷さんに頼んだ。

「池田先生に会わせてくれませんか」

びっくりした布施谷さんが「冗談いわないでよ、西郷さん。世界を舞台に行動されている先生だよ。会員である僕たちだって滅多に会えないんだから」と言うと、すかさず西郷が聞いた。

「じゃあ、僕も会員になったら先生と会えるかな?」

布施谷さんは、なだめるように言った。

「そりゃぁ、会員になればすこーしはお会いできる可能性はあるだろうけどね。しかし、学会に入ると色々言われるよ。あなたは人気商売なんだから、ここんとこはぐっとこらえて、今は学会理解者でいればいいんじゃないのかな」

こうした経緯から、聖教新聞社が「日曜てい談」に西郷を登場させたいと交渉についたのが、昨年の秋。

てい談担当の記者が西郷の事務所に電話を入れたところ、「今、西郷は忙しいから」とにべもなく断られてしまった。

ところが、その日の夕方、その西郷の事務所から聖教新聞社へ電話が入った。

焦っているような口調だった。

「先ほどはすみませんでした。実は、西郷から、そんな大事なことをなぜ報告しないんだとひどく叱られました。是非出席させて下さいということです。西郷からも、くれぐれも宜しくお伝え下さいということでした」

西郷の登場する「日曜てい談」というと、必ずと言っていいほど、いわゆる「売り込み」がある。

聖教新聞の発行部数が550万部と聞いて、自分の宣伝に利用できないかと考えるのが普通だが、西郷は違っていた。

売り込みは一切なし、むしろ編集部サイドの方が気を使い、西郷の出演する舞台を紹介したほどだった。

「てい談」の中で西郷は次のように語っている。
「偉大な方ですよ、池田先生は。僕は舞台に生きる人間です。生涯儲けてやりたいのは文化。しかし、本当に意味で文化を理解してくれるリーダーは少ない。政治の世界なんかいませんよ」

「そんな中で、池田先生は言葉だけでなく行動で、社会に世界に文化の重要性を示しておられる。目先のことにとわられない。数百年先を見つめた行動です。心から尊敬申し上げております。きっと池田先生は、日本より海外の方が評価が高いはずです。」

また西郷は、先生が作詞された「母」の曲がなぜ好きなのかについても語っている。

「二人の兄が亡くなって、すぐ上の兄貴の四十九日に、歌手になりたくて家出した。それでも母親ですね。僕のことをずーっと祈って待っててくれた。母は大地です。現在74才になりますが、本当にありがたい」

「日曜てい談」が本年1月5日に聖教新聞に載ってから数日間、西郷は、「池田先生にも読んでいただけただろうか?」と気になって仕方がなかった。

そして思いあまって、てい談の相手ともなった布施谷さんに尋ねた。

「池田先生にお礼のお便りを出しても良いでしょうか」と。

こうして西郷は、便箋三枚に自身の思いと感謝の心をしたためて先生にお届けしたのである。

先生からは、すぐさま「写真集」が贈られた。

西郷はちょうど帝劇の舞台に出演中。

20分間の幕間に楽屋にその写真集が届けられた。

西郷が写真集の扉をそっと開いた。

次の瞬間、大きく目を見開いた西郷は、「おお~~っ!」と声をあげ、思わず写真集を抱きしめてしまった。

写真集の扉には、先生の直筆で次のように記されていた。

「日本一の名優 西郷輝彦大兄(たいけい)」

かねてより「池田先生にお会いしたい。そしてご指導を受けたい」と熱望していた西郷であった。

自身の役者としての生き方に、何らかの教示を得られればという思いがあったのか。

ところが、その答えとなるものが、はからずも写真集の扉を開いた瞬間自身の生命の中で音を立てて大きく弾くけたのであろう。

「日本一の名優」・・・先生は私に人生の目標とテーマを与えて下さった」

西郷の大きな目から、いつしか感激の涙がそっと流れた。

「(写真集は)わが家の家宝です」とも語っていた。

デビュー曲は「君だけを」(昭和39年)。

30数年経った今、西郷はようやく真実の「君」と巡り会ったのではなかろうか。

そしてヒット曲「星のフラメンコ」の歌詞ではないけれど、「好きなんだけど~(チャチャチャ) 離れてるのさ~」という熱き思いで、池田先生を慕い続けてやまない西郷輝彦なのである。