投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年11月13日(日)13時09分44秒   通報 編集済
<仏の三徳 ー 主、師、親>

創造主を私達の存在の因とし、創造仏である私達は、神(又は宇宙の真理)の意志による結果としての
存在と観る「外にある道」の思想には因果具時の思想はもともとありません。
当然、完全なる三世の因果の法則や一念三千の理論はないからです。
言葉を変えていえば、神と信者の間には、信者は神にはなれない、又は神(真理)と一体となるには個の生命を滅却しなければならないという、越えがたい壁があります。
神や、真理そのものは、因果や輪廻を超越しており、創造物である私達とは最初から生命(と呼ぶのか分かりませんが)の構造を異にしています。

それに比べて、内道である仏教は、基本的に、仏は修行者を自分と同じ高みに引き上げようと
努力しており、そしてそれは可能です。
なぜなら、もともと仏も修行者も、因果の理法、輪廻の理法に則た、等しい生命機構を備えた生命体であるからです。

しかも一番最初の部分で書いた様に、特に末法の時に出現する「末法の法華経(妙法蓮華経)の行者」はあくまで凡夫僧という立場を離れません。
自分を「仏」だと言ってしまえば、とたんに凡夫の立場を失いかねません。
なぜなら、爾善教などでは「仏」というと「厭離断九おんりだんく」- 九界を厭い離れる思想ー というイメージが強く、衆生の「一生成仏」の思想から離れてしまうからです。
その意味で、総じていえば、「師弟」の関係がなりたつのは仏法だけです。
「仏」というのは「委細に三世の因果を知る」覚者のことであり人間を超えた「超人」ではありません。
「仏」の智慧をもって、衆生を幸福に導く「指導者」です。

その意味で「外にある道」の教えにはない、人間(覚者)と人間の繋がり、つまり「師弟」の関係が成り立つのは内道である「仏法」でけです。

そして、その「仏」が持っている特質を「主、師、親の三徳」といいます。

「一切衆生の尊敬すべき者三つあり、所謂、主・師・親これなり」
開目抄 p186

主徳とは、主人の徳で、人々を守護する働き

師徳とは、師匠の徳で、衆生を正しい道に導く働き

親徳とは、親の徳で、衆生を慈愛する働き

しかし、よく考えてみれば、人々を守護する、ということも、衆生をどの様に愛するか、ということも、「正しい道」が分かっていればこそ、守護も慈愛も正しい判断の元で正しい行動ができます。
その意味で、やはり一番の根本になるのは、「正しい道」を教える 「師匠の徳」ではないでしょうか。
この意味からも、仏法の「仏」の別名は 「師匠」といってもいいと思います。

究極の真理を説いた仏なら、永遠の師匠です。