投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年11月13日(日)13時29分11秒   通報
<師弟論の混乱 - 正宗の師弟相対>

結論から先に言えば、正宗の師弟論とは

「直弟子の日興(その時点では、大聖人が本弟子と定められた6人の弟子)だけが大聖人を「師匠」と呼ぶ権利があるのである。
直弟子ではないその後の大聖人の仏法の修行者にとっては歴代の法主こそが「師」であることにより、大聖人直結を叫ぶのは、その後の歴代法主に対する師敵対である。
これに違背する者は、地獄に堕ちる事が必定である。
私達にとって大聖人は「御本仏」と呼ぶべきであり、「師匠」ではない。」

ここで正宗の「師弟相対」という講義がありましたので、その中から、正宗にとっての「師」とは誰なのか、という事についての部分を引用します。

以下引用します。

【師弟子の次第を超えてはならない】

これはあくまでも大聖人御在世のことでありましたが、御入滅後は日興上人が「本門弘通の大導師」の任に当たられた以上、日興上人が大聖人のお立場に立たれるわけでありますから、「大聖人直結」を叫ぶ者は日興上人への師敵対関係になることを知らなければなりません。
http://www.jihonji.net/oko215.html

日興上人が『佐渡国(さどぐに)法華講衆御返事』の、
「なをなをこのほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじくほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)におち候也」(歴代法主全書1ー183)
能のう所しょ一体
http://tidouji.la.coocan.jp/yougo/7/759.html

大聖人は『御講聞書』に、
「能と云ふは如来なり、所と云ふは衆生なり、能所各別するは権教の故なり。法華経の意は能所一体なり」
(同一八六二㌻)
と仰せのように、法華経は能化の仏と衆生の九界の一体不二が説かれており、その互ご具ぐ円えん融ゆうの境界に即身成仏が成ぜられるのであると説かれています。
日興上人が『佐渡国法華講衆御返事』に、
「なをなをこのほう法もん門は、し師で弟し子をたゞ糾してほとけになり候。しでしだにもちが違い候へば、おなじほくゑ法華をたも持ちまい進らせて候へども、む無げん間ぢ地ごく獄におち候也」

これらの御指南は、末法の御本仏である日蓮大聖人はもちろん、血脈付法の御法主上人猊下を現在の仏法の大師匠と仰ぎ、
その御指南に信伏随従して信仰に励むところに、師弟相対による即身成仏の大功徳が具そなわるのであり、反対にこれに違背する者は地獄に堕ちることが必定であると仰せられたものです。したがって、私たちは師の心に適かなった信心を常に心掛けていかなければなりません。
即ち、日蓮大聖人を末法下種の教主・主しゅ師し親しん三さん徳とく兼けん備びの御本仏と仰ぎ、大聖人の甚深の仏法を唯授一人の血脈相承をもって
お受けあそばされた第二祖日興上人以来の御歴代上人を本師と仰いで仏道修行に励むことにより、末法の衆生は下種三宝と冥みょう合ごうして成仏得道が叶えられるのです。
この基本に則った上で、御法主上人猊下の任命により各末寺に派遣された御住職・御主管を、血脈法水への手続の師匠として、信行に励むとき、末法凡下の我々の生命に信心の血脈が通い、大聖人からの法水が流れ通って我が身の全体が妙法蓮華経の当体と顕現するのです。
大聖人の下種仏法は、己の智ち解げによって成仏するのではなく、師弟相対の信の一字によって成仏が遂げられることを心得ましょう。

以上引用終わり
これらの見解を、信者を代々の法主に縛りつける権威を正当化する弁明にしか聞こえないのは私だけでしょうか。

法主といっても「仏」ではありません。
人間ですから間違いもあるでしょう(極力あってはなりませんが 笑い)。
その時に私達の信心が「大聖人直結」でなかったら、私達の心は路頭に迷う事になります。

この指導はどう受け取ればいいのでしょう。

時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。               ・
(たとえ、時の貫主であっても、仏法の正義に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない。)

日興遺誡置文 p618
>即ち、日蓮大聖人を末法下種の教主・主しゅ師し親しん三さん徳とく兼けん備びの御本仏と仰ぎ、大聖人の甚深の仏法を唯授一人の血脈相承をもってお受けあそばされた第二祖日興上人以来の御歴代上人を本師と仰いで仏道修行に励むことにより、末法の衆生は下種三宝と冥みょう合ごうして成仏得道が叶えられるのです。<

能のう所しょ一体といいながらも、大聖人を「御本仏」として凡夫と隔絶した高みに上げる事によって、その隙間に法主の権威を固定化しているのを大聖人が見られたら、お嘆きになるに違いありません。
>大聖人の下種仏法は、己の智ち解げによって成仏するのではなく、師弟相対の信の一字によって成仏が遂げられることを心得ましょう。<

??? 寝耳に水です。