投稿者:螺髪 投稿日:2016年11月13日(日)22時24分55秒   通報 編集済
“プラトン”が出てまいりますか。
一人のSGIさんの投稿が途中でしたので控えましたが、温めていた池田先生とトインビー博士の対談「21世紀への対話」を自身の研鑽として投稿いたします。プラトンにも触れた内容です。

「21世紀への対話」に学ぶ『仏法の三諦と、究極の精神的実在』=上=
アーノルド・トインビー博士といえば、池田先生と編んだ「21世紀への対話」ではないでしょうか。キリスト教文明に育ち、世界を代表するこの歴史学者との対談を皮切りに、池田先生の世界の知性との交流が始まりました。先ごろ、寝たきりオジサンさんのおかげで、そのきっかけが名もない身体の不自由な青年から始まったことも、新たな歴史的事実として知ることになりました。仏法の“三諦論”がトインビー博士のいう“究極の精神的実在”と対比して語られている箇所があります。

すでに、グリグリさんから「三諦論」の講義を受けましたが、また違った角度から切り込めるのではないかと、収録してみました。このあとの箇所で、十界、十如是の説明を受けて、トインビーをして、「仏教では、きわめて精密な心理分析をしていますね。その精密さは、これまで西洋でなされてきた、いかなる心理分析にもまさるものです」(21世紀への対話<下>282㌻)
といわせしめているほどです。

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池田 「博士の所説によれば、“宇宙の背後にあり宇宙を超越する精神的実在”との霊的交渉は宗教的体験であるということです。そして、それは個人的、主観的な体験であって、客観的な検証は不可能であるということです。
そこでお聞きしたいのですが、博士のいわれる宗教的体験とは、仏陀の悟りや、モーゼやイエスやマホメットの受けた啓示と同じでしょうか。また、そうした宗教的体験はだれでももつことができるとお考えでしょうか」

トインビー「私はモーゼ、――彼が歴史上の人物だとして――イエス、マホメットが受けた、ないしは受けたと信じられている啓示は、同じ性格のものだと思います。ただし、それらの啓示も仏陀の悟りとは異なる種類のものでしょう。
ユダヤ教の創始者――もしくは創始者たち――も、イエスもマホメットも、みな有神論者で、“究極の精神的実在”は唯一全能の神であると信じていました。

イスラエルやユダ王国の預言者たち、それにイエスやマホメットは、いずれも自らが神から啓示を受けたものと信じました。彼らが自らのために、またその信奉者たちのために追求した神との合一の形態は、人間と人格神、つまり二つの生きている存在の間の霊的交渉(コミユニオン)というものでした。
これらユダヤ系諸宗教の見解では、この二つの生きた存在にあっては、神のほうがその力においてはるかに優位にある点では互いに異なりながらも、人間的という意味での人格を有する点では類似しているとされたのです」

池田 「おっしゃる通りですね。では、釈迦の悟りについては、どうお考えでしょうか」
トインビー 「釈迦は唯物論者ではありませんでした。――よし神々の存在を信じていたにしろ、それらには小さな役割しか与えておりません。釈迦は、自らの悟りを自分の精神的努力によって得たものと信じました。また彼の信ずるところによると、“究極の精神的実在”とは、すなわち人間の欲望――人間性のうちカルマ(宿業)を生み出す根源である欲望――が消滅した状態、すなわち涅槃(ニルバーナ)のことでした。=中略=」(265~266㌻)

~北伝仏法と南伝仏法の語らいが続く~

池田 「略=
ところで、これまでみてきましたように、仏陀の教えと、モーゼやイエスの教えとが、その究極において異なるのはなぜか――。この点について、博士はどうお考えになりますか」
トインビー 「つまり、一方に仏陀がおり、他方に一神教的有神論者たちがいて、互いに“究極の実在”の本質について、相異なる見方をしているわけです。たしかに彼らの観点は相容れないものですが、かといって、必ずしも一方が正しく、他方が誤りであるとはいえません。彼らがそれぞれ“実在”の異なった側面をみたというほうが、私には蓋然性があるように思われます」

池田 「なるほど。では、“究極の実在”がどうしてそのように相容れない面をもつとお考えでしょうか」
トインビー 「現在、人間の知性が、科学的推論を経験に照らすことによって知りうる、宇宙のごく一部分においてすら、物質は、その最極微小の領域では互いに相容れない特性を持つといわれます。

私は、人間の思考では理解できない矛盾というものは、すでに人間がその理解力の限界の一つに突き当っていることを示すものだと思うのです。“究極の実在”の本質とは、やはり人間の知性では、たぶん部分的にしか理解できないものなのでしょう。したがって、私は、“究極の実在”に対する仏教の見方とユダヤ教系諸宗教のそれとが相容れなくても、そのことは、いずれか一方が誤りであることを示すものではないと考えます。むしろそれは、いずれの見解も、人間によるものであるがゆえに、部分的かつ不完全にならざるをえないことを示すだけの話だと思われます。

ただ、私は、これら相容れない両者の見方は、相容れないがゆえにかえって補い合い、人間の知性ではせいぜい部分的にしか理解できない一つの“実在”に対するわれわれの理解を、実際には深めさせてくれるのだと考えています。

池田 「人類が、もしそのように考えるならば、これらの高等宗教が将来統合されるということは、大いに考えられることですね。そこで、もし統合されるとすれば、博士は、それはいかなる形をとるとお考えでしょうか。現存する高等宗教の一つに統合されるのか、それとも何かまったく新しいものに止揚されていくのか、どう思われますか」

トインビー 「私には、高等宗教の結合はすでに始まっているようにみえます。私のみるところでは、この結合は一体化の形ではなく、むしろ相互に認識し合う形をとりつつあります。つまり、これらの諸宗教のいずれもが、“究極の実在”について、部分的にすぎないにせよ、特色ある独自の観点をもっており、いずれの宗教も人類に価値をもたらすものであるという相互認識です。

人間はそれぞれ異なる経験をもつものですが、それだけでなく、人によって気性も異なります。われわれが共通して持つ人間性ですら、すでにこのような差異があることからみても、“究極の実在”に対する見解がいくつもあって、われわれがその“実在”を多少なりとも理解するのを助けてくれるというのは、むしろ幸いなことでしょう」

池田 「なるほど、よくわかります。“究極の実在”というものの深遠さに比して、人間の理解力があまりにも浅いために、それを部分的、一面的にしかとらえられることができないという博士の説に、私も同意します。

ただ、あえてこの点をもう少し追及して述べてみましょう。
さきにも申し上げたように、仏法では“空”“仮”“中”の三つの存在の仕方についての概念を立てています。“空”ということと“仮”ということとは、互いに矛盾する内容をもっているわけですが、それは、“中道”という実存において止揚されるのです。仏法は、個々の生命も、博士のいわれる“究極の実在”も、この“空・仮・中”を同時に備えた存在であると教えています。

一神教的有神論者が考えている“究極の実在”は“人間に似た姿をもつ神”という意味では“仮”の側面を現していますが、その場合でも、肉体と精神の統一体であるわれわれの現実の人間とは違って、それ自体、永遠不滅であるとしますから、本当の意味での“仮”でもないようです。

また、博士が主張されるように、“究極の実在”が“愛”であるとしますと、これは“空”の側面を捉えているといえます。しかし、それをいかに現実の生命的存在の中に権限していくか、もっと根本的にいえば、この“究極の実在”はどのように、具体的な心身統一体としての生命存在のうちにあらわれてくるのか、という点は明らかにされていないように私には思われます。
つまり、それぞれの宗教がとらえているのは“究極の実在”の異なった部分なのです。仏法は“空・仮・中”の三つの側面から、その全体像に迫ったものであるといえます。=以下略=」(21世紀への対話<下>268~272㌻)

(つづく)