2016年11月10日 投稿者:ダメよ~ ダメダメ 投稿日:2016年11月10日(木)15時57分3秒 通報 第二次宗門問題より26年が経ち、創価学会が日蓮正宗から破門されて25年。 創価ルネサンスと銘打ち、平成の宗教改革を池田先生と共に戦かってきた。 しかし25年経って起こったことは先生が「仏敵と戦え」と仰っても口だけ、形だけの信濃町界隈 の職員幹部等によって池田先生の創価学会が乗っ取られてしまった。という現実。 そしてご都合が悪いことには蓋をし、邪魔な方々に対してレッテルを貼り、理不尽にも故無き 数々の処分にしている。 活動自粛の名の事実上の活動停止。会合等への参加停止。会館等の出入り禁止。会員との接触禁 止。役職解任。除名。等々。 池田先生はこの頃次の様な御指導をされていました。今日の状況を見通される様に。 少々長いがご紹介させて頂きます。いかに現在の信濃町界隈の職員幹部である執行部が狂い、 池田先生の御指導と真逆で正反対の思想であり振る舞いであるかを。 池田先生の「破門」についてのご指導です。団体なら破門、個人なら除名処分です。 【池田先生ご指導】 「破門」──驚くべき時代錯誤 その方は、宗門が学会に対して「解散勧告」を出した後、マスコミ等が「次の処分は『破門』になるのではないか」と騒いでいるのを見聞きされ、次のように語っておられたという。 「カトリックにおいても、中世には、カトリックの正統に対し、信仰上で異端説を唱えた場合には、破門に処すことがあった。しかし、今では破門など聞いたこともない。『破門』などという言葉や考え方自体、まったく前時代的で、時代錯誤といえる。現在では、なじまないし、考えられない」 「カトリックでは、教皇庁きょうこうちょうの中に、検邪聖省(けんじゃせいしょう)や、賞罰に関する裁判所のシステムがあり、異端問題でも何が異端なのか、全員で評議し、判断することになる」 「教皇庁裁判所のシステムは、弁護士、検事、裁判官もいるという民主的な構成になっている。また、よほどのことがない限り、破門するなどということはありえない。最近でも、バチカン(教皇庁)のことを″悪魔の巣″と公然と批判した大司教がいたり、異説を唱えた神学部教授がいたりしたが、これらを破門に処することはなかった。また、この教授に対しては、バチカンの決定は『世界各国における神学校の教授にはなれない』との判決のみで、聖職の解任等もなかったのである」──と。 「民主的な教団運営」がいかに重要かということである。 宗門は「非宗教的」「反民主的」 「どんな宗教においても、信仰の根本である教義の基本というものは、そんなに複雑なものではない。例えば、カトリックの教義についていえば、その本質は(1)神を信じる(2)イエス・キリストを信じる(3)聖霊を信じる、というものである。 一方、外からの見方ではあるが、日蓮正宗の場合は(1)御本尊を信じる(2)日蓮大聖人を信じる(3)御書を信じる、ということに核心があるのではないかと思う」 「もしも、こうした″信仰の根本″を否定し批判するのであれば、教皇庁でも、それが異端か否か、破門に処すべきか否かを検邪聖省で審議するであろう。しかし、カトリックでは、そうした″信仰の根本″に対する批判は別として、つまり教義の解釈や本質問題以外の主張や議論、批判については、『思想の自由』として保障しているのである」 「その意味で、日顕法主らが創価学会の『解散』や『破門』などを、学会からの話を聞こうともせず、一方的に処分することは、あまりにも『非宗教的』『反民主的』であって、常識では考えられない。そして『言論の自由』『良心の自由』にも反するといって過言ではなく、まったく人権無視のやり方である」 ″信仰の根本″の歪曲こそ大問題 さらに次のようにも語られている。 「カトリックでは、ローマ教皇を含めて、信徒は皆、『神の民たみ』であると、神の前の平等を説いている。日蓮正宗の場合でいえば、日顕法主も一学会員も仏の前に平等であるということだ」 「僧侶(聖職者)と信徒は、役割が違うだけであり、だから僧侶が偉いということにはならない。ただ単に役割分担の問題であって、その役割に互いに敬意が払われているということである」 「教皇は聖職者と信徒の代表であって、絶対に『神』ではない。もちろん歴代の教皇の中にも、時には私生活の乱れた″悪教皇″もいた。しかし、信仰の根本となる教義の基本を変えたりした教皇はいなかった」 「仮にも、宗祖たる日蓮大聖人よりも現在の日顕法主のほうが偉いというような、信仰の根本にかかわる教義の歪曲わいきょくを宗門が行ったとしたら、それこそ″異端″である。普通ならば即刻、追放されてもおかしくない重大問題である。退座要求が起こるのは当然だ」 教皇は信徒奉仕のしもべ 「カトリックでは、教皇は信徒に奉仕する″しもべの中のしもべ″と位置づけられてきた。したがって信徒蔑視べっしの考え方は、まったくない」「その点からいえば、日顕法主も信徒の″しもべ″であって当然であろう。だから私は『しもべよ、いばるな!』と言いたいほどである」 「カトリックでも、(信徒が)教皇や司教(高位聖職者)に跪ひざまずいたりすることは、第二バチカン公会議(一九六二年から六五年)前後からなくなっている。現教皇もそのようなことを要求してはいない」 「現在の宗門が、″法主本仏論″のような主張を唱えること自体、信徒に奉仕する″しもべ″の自覚がない証拠といえる」 また「葬儀などの儀式においても、信徒を金もうけの手段にする現状は、宗教の堕落そのものといえる。宗門では、信仰の根本よりも、儀式が中心となってしまっているのではないか。その堕落を助長させた僧侶の養成自体に問題があったとしか思えない。こうした日顕法主ら宗門の現状には、怒るというより、悲しくなってしまう」と。 「日蓮正宗の僧侶は、これほど学会員に支えられて裕福になっているのである。にもかかわらず、彼らは信徒一人一人のことを、政治家が数える″一票″のようにしか考えていないのではないか」 「日顕管長は、在家出身ではなく、親子二代にわたる″エリート管長″だそうだが、血統を云々うんぬんすること自体、日本的発想の、おかしなところである。日本人は、なぜそんなに″血筋ちすじ″が好きなのか、理解に苦しむ。仮に親が立派だとしても、子供も立派とは限らない。カトリックでは逆に、特別な血統がないところから、いろいろな人材が出ている。 現在、ローマ教皇も、伝統を超えて、イタリア人だけでなく他の国からも出ている。いずれにせよ、教団に限らず、団体は常に″新しい血″を入れないと、社会から隔絶かくぜつした組織になってしまう。 現在の日蓮正宗の宗門は、一部の僧侶による閨閥けいばつづくりが進み、一種の閉鎖社会になっているようだ。このような宗門は″新しい血″を入れて、構造の変化と体質の改善をせねばならないと考えているのは、私一人ではない」 信徒が聖職者の逸脱の歯止めに 「カトリックには、信徒評議会や信徒団というシステムがあり、教団運営にも参画している。そしてまた、これが聖職者の逸脱を防ぐ働きにもなっているとする見方もある。 評議会の構成は、二十年前ごろなどは世界中の信徒から選ばれた代表十五人と、枢機卿すうききょうを含めた聖職者十五人の合計三十人であった。評議会内では、聖職者は、議決権を持たない″顧問″のような立場であり、最終的には信徒の発言と議決によって物事が決定される。評議会の信徒代表のメンバーは、教皇庁に対して、全世界の教会の在り方について自由に意見を言うことができる」 すなわち、カトリックでは、このように、信徒の意見を教団に反映する″信徒尊重のシステム″が確立されている、というのである。 (″少数の聖職者″の独断ではなく、″大多数の信徒″の総意と利益を尊重する──それが世界の大勢である。また在家中心という大乗仏教の精神にも合致しているといえよう。 ところが宗門においては、こうしたシステムがないばかりか、この十数年間、かえって信徒を抑圧し、法主に権限を集中させる体制を着々とつくり上げてきた。 また宗門の「C作戦(創価学会分離作戦)」においては「創価学会の法人責任役員の過半数を、日蓮正宗管長の指名する僧侶が占めることを命じます」等の″信徒団体乗っ取り″の謀案が明記されており、仏法的にも、良識的にも、人権上も、まったく″逆行″の体質が、社会の人々の眼前に浮き彫りになった) 「教皇の出費は、バチカンの国務庁によって決められ、それ以外の金銭は、教皇には渡らない。 信徒が信仰心からバチカンに出したお金は、すべて教皇庁財務局に入り、教皇が勝手に手をつけることはない。教皇には、財務局から質素な生活費、および公務執行費程度しか支給されていないのが実情である。教皇個人が、日蓮正宗のように、信徒からの供養を勝手に使えるなど、絶対に考えられないし、許されない。 正宗の宗門は、昔、小さな教団だったので、金銭に関しては、いわゆる″どんぶり勘定″だったのではないだろうか。創価学会による発展とともに、宗門はそうした体質・構造を変えるべきであった」 宗風改善の要求は当然の権利 「(宗門による一方的な登山方式変さらによる)売店の大打撃や、バス会社の副社長が自殺にまで追い込まれたことなど、大石寺の目の前にいる人々の生活を、宗門では、どう考えているのか。これらの人々は本来、大石寺の門前にあって、宗門にとっても、ありがたい存在の人達であったはずである」 「宗教とは、信仰をもとにしたものであって、企業ではない。創価学会員は、日蓮大聖人への信仰を奉ずる信徒であって、″株式会社日蓮正宗″の平社員などではないはずである」 「信徒の代表たる総講頭の発言は、大変に重みのあるものである。たとえ法主であろうと、信徒の総意によるものには、耳を傾けるのが当然であろう」 「また、僧侶の金銭感覚の堕落、信徒蔑視の体質があれば、信徒がそれに対して意見を言い、宗風を正すよう要求するのは当たり前のことである」 「宗教においては、『変わらざるもの』は何か、『変化すべきもの』は何かを見極みきわめることが大事だ。すなわち、普遍性と特殊性をわきまえることが、宗教発展につながるのである。カトリックにおいても、社会の多様化に伴って、現代という時代への対応・適応が必要になってきた。現代では、独善的・閉鎖的ないき方は通用しないのである。 その意味で創価学会は、信仰の根本の部分は堅持し、普遍化しながら、布教の姿勢については、現代に適応させようと努力してきたから、今日までの発展を築くことができたのだと思う。 創価学会員が各地の旧(ふる)い社会の因習を打破してきたように、宗門の僧侶たちが、自ら″広宣流布″に尽力し、血のにじむような努力をしていれば、この点も当然、理解できるはずである。 ″日顕宗と化した″といわれる宗門の実態を見聞きするにつけ、驚くばかりである。仏法でいう『増上慢』そのものの姿を現出しているとしか言いようがない」 ──良識の声、正義への励ましの声として、紹介させていただいた。 こうした識者の意見をふまえて「世界宗教の条件」をまとめてみると、次のようにいえるのではないか。 (1)民主的な″開かれた教団運営″ (2)「信仰の基本」には厳格、「言論の自由」を保障 (3)「信徒参画」「信徒尊敬」の平等主義 (4)「儀式」中心ではなく、「信仰」中心 (5)血統主義ではなく、オープンな人材主義。 (6)教義の「普遍性」と布教面の「時代即応性」。 創価学会はこれらの要件を満たしている。 以上。引用終わり。 本来この「世界宗教の条件」の要件を満たしていた創価学会は現在、池田先生の思想とは真逆の 信濃町界隈の信心無き職員幹部の執行部に乗っ取られ、残念ながら全く異質な教団となってしま った。この「世界宗教の条件」には一つも該当しなくなってしまった。 理由はただ一つ、池田先生の御指導通りに戦わない、戦って来なかった。そして仏敵と戦わない と自らが仏敵となってしまう。との御指導通り。まさに「時代錯誤」の教団と成り果てました。 Tweet