2016年11月9日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月 9日(水)07時21分3秒 通報 先生は、いままで何回も海外に出られて、さまざま大学の講演ですとか、あるいは、海外の著名な方々との対談とかおこなっておられます。 実は私の仕事柄、創価学会本部の倉庫とか、蔵のなかを歩き回っているんですけれども、そこで大変変わったものが出てまいりまして、四冊の小さな大学ノートが出てきました。一緒に巻紙に和歌が書いてあるものも出てまいりました。 で、よく解んなかったんでしらべてみましたら、実はこれが、いわく因縁のあるものだということが解って参りました。 それは、三十年位前になるんですけれども、毎日新聞社の企画で、アーノルドトインビーに読者から質問を募集する。そしてその読者の質問にトインビーが毎日新聞の紙上で答えるという企画があったそうです。 実は、その企画に、神奈川に住んでいた佐藤さんという青年が応募をされました。 そしてその質問が採用されて、毎日新聞に載ったんだそうです。 調べていくうちに、そうようなことがだんだん解ってきました。 さらに調べてみると、実は、佐藤さんはこの時、トインビーの質問の答えに満足できなかったそうです。 で、彼は、直接トインビーに手紙を書こうという気になったそうです。 ところが、彼は進行性の筋ジストロフィーという、医学の世界でも、どうにもならないという不治の病と戦っていたそうで、小学校途中で、すでにもう学校にも行かれずに、入院と自宅療養との繰り返しになっていたそうです。 そんな中で彼は、『私は学校にも行けない。したがって、私の生涯にあって、先生と呼べるのは池田先生しかいないんだ。』そう腹にきめてですね、先生の指導であるとか御書であるとか、懸命に勉強しながらいたそうです。 そういう彼ですから、毎日新聞の企画に、さっそく先生の思いというものをぶつけたくて投稿をしたそうなんです。ところが先ほどの話のとおり、博士の返事が納得いかなかった。 どういう話かといいますと、アーノルド・J・トインビーという世紀の歴史学者が、その考え方を新たにするエポックになったひとつの事実であったことがだんだん解ってきました。 博士は、文明が新たな文明に転換あるいは昇華をしていくときに、文明間において、挑戦とそれに応ずる戦い・応戦とが起こりうる。という考え方から、戦争必然論を展開していったそうなんですね。 そこのところを佐藤さんは、自分が尊敬する創価学会の指導者である池田先生は、博士の考えと全く異なっています。絶対的な平和を基調とする文明論を展開されているんです。このアーノルドトインビーの根底的な歴史観を覆すような内容の手紙を書いたそうです。 もっとも彼は、筋ジストロフィーという病気になっていましたので、決意をして書き始めても、大変に体力を消耗する戦いだったそうです。 長文の論文だったそうですが最後の方になりますと、ひとつの文字を書くのに、数分かかるというような大変な手紙だったそうなんです。 この話を先日、お母さんとか、弟さんにも聞きましたけれでも、その手紙を毎日新聞社に持っていったそうなんですね。けれども、毎日新聞では、これ以上のことはできませんと言われてしまい、門前払いをされてしまったそうなんです。 そんな時に弟さんが、夏期講習会で池田先生にお会いする機会を得たそうです。 それで、お兄さんの論文ともいえるお手紙を、先生に見ていただく機会があったそうなんです。 先生は、そのお手紙をご覧になって。 これはもう、ともかく素晴らしい!。 これはすごい論文だ!。 当時のお話ですから、富士美術館が完成したら永久に保管をさせていただこう、そういうふうに言っていただいたそうです。 そして、佐藤君のお兄さんには、団扇(うちわ)をお土産にいただいたそうです。 団扇を持って帰ってその話をしたところ、ベッドのうえでその団扇を手に取りながら、『この うちわ というのは、打ち破ると書いて病魔をうち破りなさいと先生はおっしゃっていらっしゃるんだ』こうお兄さんは言われてですね、力ない手つきではあったそうですけれども、団扇をあおぎながら先生の激励にこたえたそうです。 そうこうしたなかで、毎日新聞社としてはできないけれどもということで、毎日新聞の一記者が、彼の手紙の内容に感動していて、尽力をしてくれたそうです。 そして、アーノルドトインビーの弟子が、京都大学で教授をやっておられたそうで、そこに持ち込んだんですね。 教授もやはり内容に感銘し、その手紙を自分で全部英訳して、アーノルドトインビーに届けたんだそうです。 そんな状況だったそうですけれど、手紙に対する返事はいつ届くか分らない。 しかし、彼の病状はどんどん悪化していったそうです。 ある時なんか心臓が止まってしまってですね、人工呼吸で家族の唱題で必死のところで蘇生をするというふうなこともあったそうです。 病院の医師からも、とても返事が来るまで持たないかもしれない。という話があったりなんかする。 そんななか彼は頑張っていたそうなんですが、いよいよ返事が来たときには、彼は病院のベッドから起きあがれなかったそうです。 とにかく、京都大学の教授が一緒に来てくれて、翻訳しながらその手紙を読んで聞かせてくれたそうです。 そのトインビーからの手紙の内容は かねてから創価学会には注目をしていました。 池田先生の平和的な歴史観という佐藤さんの主張について、私もいま考え始めています。 是非日本に行って佐藤君にお会いしたい。 また、創価学会の指導者である池田先生にも是非お会いしたい。 そうゆう趣旨の返事であったそうです。 トインビーもこの佐藤さんの手紙によって、創価学会、仏法、そして池田先生という偉大な人の存在を知ったようです。 その誠意あふれる博士からの手紙を受け取った数日後、彼は、二十四才でなくなった。そのことについて、お母さんと弟さんが、先生にご報告をされる。 報告を受けられた先生からは、『一度もお会いしたことはないけれども、佐藤くんは私の立派な弟子です。』という御伝言とともに記念品が届けられたそうです。 ところが、記念品は、本来亡くなったわけですからあれなんですけれども、先生はあえて、真っ赤な朱文字でお祝いと書かれて届けられたそうなんですね。 そんなことがあった後しばらくして、アーノルドトインビーから先生宛に、池田先生をロンドンにご招待したい。我々二人で、現在人類が直面する諸問題について対談を希望したい、という要望が届いたそうです。 そして1973年5月15日、いよいよ先生とトインビーのあの有名な対談が実現をする。 それで、いざ会談に臨んだ博士というのは、池田先生の人格、見識、知性というものにふれて、いっぺんで先生に惚れ込んでしまう。 それで、会談の最後のほうには、どうか私の紹介をする、私が信頼をする世界の七人の人物に会ってもらいたい。そして、先生の思想というものを語っていただきたい。そういう話がトインビーからあって、世界的な知性の人物を七人紹介されて、それから対談が大きく展開され、先生のネットワークがさらに拡大していく。こういう戦いがあったそうでございます。 ところで、先ほど出てきた四冊の大学ノートはいったいなんだったのかと言いますと、彼が病床でですね、一生懸命に和歌を綴っていたんだそうです。 大変申し訳ない話ですが、開けてみると、大変大きな文字で、かな釘流で、とても何か読みづらいんですね。 ところがその四冊の最初の頃の歌というのは、何とかの誓いに負ける我が身に泣けるとかですね、星が輝いて悲しいとかですね、とっても悲嘆にくれるという歌が多かったんです。 しかし、先生の激励や周囲の人たちの励ましもあって、彼は病魔と戦い、手紙を書き続けるというなかで、だんだん死に近づくにつれて、それとは逆に彼自身の生命力が増してきて、むしろ大変な使命感にあふれ、輝きをましていくような歌に変わってきました。 で、最後の一句というのは、 一念の 力に勝(すぐ)る 敵はなし 成すも成なさぬも 己(おの)が心ぞ こう読んで亡くなっていきました。 それを数年経って、お母さんが、是非先生に息子の和歌を見ていただきたい。 そうはいってもあまりにも病床で筋ジストロフィーという体で書いた文字なので、先生にお見せする、また読んでいただくのは申し訳ないということで、お母さんが筆で、巻紙に書き写されて、それを届けられたものだったそうなんです。 そうような戦いがあって、少なくとも懸命な一人の青年の戦いというものが、世界の広宣流布の、やはり大きな原動力になっているという事実、そういう陰の戦いがあった。歴史を作られたんだなと、この大学ノートを見、そして調べていくなかで思いました。 Tweet