投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)16時51分25秒   通報
あたかも眠りが安息であると言い切れないと同じである。

眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、
浅い眠りに悩んでいる人もあると同じである。
この死後の大生命に溶けこんだ姿は、経文に目をさらし、
仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。

この死後の生命が、何かの縁にふれて、我々の目に映る生活活動となってあらわれてくる。

ちょうど、目を覚ましたときに、きのうの心の活動の状態を今もまた、
そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、

この世の果報として生き続けなければならない。

このように寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、
死んでは生き、永久の生命を保持している。

その生と生の間の時間は、人おのおの異なっているのであるから、
この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない」

(戸田城聖全集三巻)と〝生命の連続性〟について明快に述べています。

師匠(牧口)を亡くした苦しみに耐え、厳しい環境の獄中で、
経文を前に思索に思索を重ねてつかんだ戸田先生の「生命論」を信じるならば、

決して人をいじめたり、生命を軽視することはできないはずです。

この三世の生命観に立てないところに、人間の不幸があるのだと思います。

三諦における中諦の考え方――つまり、中道主義を「右か左か」「保守か革新か」という
次元で理解しようとしても、それは的外れというしかなく、到底、理解できるものではありません。

生命の本質を解明した日蓮仏法を出発点とした池田先生の中道主義は、

生命を唯心的にとらえた唯心思想にも偏らず、
物質面からとらえた唯物思想にも偏らず、

しかもその両者を包含した「生命の尊厳」が最大の特徴となっています。