2016年10月26日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月26日(水)12時37分52秒 通報 厳格な科学的態度と実証主義的な生き方を貫いてきた牧口先生は、 宗教はもとよりそれに限らず、一貫して〝生活との関係の証明〟に関心をもっていました。 牧口先生が日蓮仏法に引き付けられた理由はいろいろあると思いますが 「日蓮仏法を信仰してみよう」と心が動いたのは、釈尊が説いた 釈尊滅後の仏法変遷の予言が、日蓮大聖人によって実証されたからだと思います。 牧口先生はこう述べています。 「されば日蓮大聖人が法華経の予言通りに、末法の日本国に出現して、 その文々区々を御一生のうちに示しあらわして、生活との関係を証明されなければ、 法華経一巻は単なる雄渾壮麗なる構想の小説として文学感賞の作品にしか過ぎないであろう。 したがって釈尊のみでも、日蓮大聖人のみでも、単独ではいかなる苦心惨憺(くしんさんたん)の証明も、 人をして信用させるわけには行かないであろう。 かく前仏(釈尊)と後仏(日蓮)と互いに相応することによって初めて信ずることができる(趣意)」 (牧口常三郎全集八巻六七頁)と。 牧口先生は仏法が決して人生の実生活と無意味なものではなく、 むしろ万人を幸福にしていくものであると考えていました。 そして、前仏(釈尊)と後仏(日蓮)の相応が二千年の時を超えた 必然的因果関係として納得できたからこそ、日蓮仏法の信仰を始めたのだと思います。 牧口先生は宗門に入会してからも一貫して 「発達したる人民は必ずしも宗教の起源地、その他の霊地を参詣せずとも内心の信仰によりて、 その宗教心を満足するを得るに至る」(牧口常三郎全集七巻九二四頁) という考えは、いささかも揺らいでいません。 Tweet