2016年10月26日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月26日(水)08時56分19秒 通報 これは仏法を学んでいくうえで、本質論の基本・前提とも言えるものですが、 釈迦仏法と日蓮仏法の最大の違いは「実体」があるか、ないかということです。 実体とは何かというと「本尊」です。 この本尊が確立しているか、いないかが、釈迦仏法と日蓮仏法を決定的に分けている点なのです。 釈迦仏法では〝本尊〟が確立されていないので、実践法が明確ではなく、 釈尊滅後は一部のエリートだけの専有物となってしまいました。 しかし、日蓮大聖人の仏法は〝本尊〟を確立したことによって、 全民衆が実践できるものとなり、同時に全世界に流布し得るものとなったのです。 そもそも信仰と哲学は本来、ひとつ(一体)のものです。 そうでなければ、哲学だけでは空虚なものになってしまい単なる絵に描いた餅です。 また信心だけでは盲目・盲信となってしまいます。 仏法を哲学の面からみれば、鋭い直観智をもって、生命を洞察した偉大な哲学体系です。 特に日蓮大聖人の生命哲学は、過去の大論師が築き、積み上げてきた大乗仏教哲学を、 最大限に活用し、応用しつつ、生命の根本を完璧に解き明かした哲学の最高峰といえるでしょう。 しかし、今や日本の既成仏教は形骸化し、形式主義に流されているように見えます。 そうなった最大の原因は、本来、民衆を教化していく立場の人間が、 一宗一派という小さい群れにこだわり、深い哲学的思索と研鑽を怠ってしまったからだと思います。 また哲学界にしても、いたずらに難解な言辞を弄し、観念論となっているのは、 信仰という土壌を失ってしまったからだと考えます。 Tweet